orangeitems’s diary

40代ITエンジニアが毎日何か書くブログ

人間の全体智に対しての考え方と、それでも人間しかできないことの整理

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課題文

今日は、「人間の本体は心臓でもなければ脳でもないという価値観」の記事について考えてみたいと思います。

 

kawango.hatenablog.com

いろいろはしょって、ぼくが考えたひとつの結論を書くと、世間一般で思われている知性というものの実体のかなりの部分は、個々の人間は持っていなくて、社会が持っているものであるということだ。とくに人間が高度な知性の証だと考えるものほど、実体は社会にあって、ひとりひとりの人間は持っていない。

 

考察

人間社会の智は人間の脳や肉体にはなくて実は外部にあるという説は、大昔からその通りだと思います。コンピューターやAIがこれをもたらしたのではなく、旧来は紙の本がストレージの役割を持っていて大学が最もデータを保持していて、そしてそれにアクセスするために大学に入学していたのではないかと思います。その智を応用するかたちで民間企業があり、社会から求められる成果物を大量生産することで社会が回ってきたと思っています。いたって昔から、人間一人の脳に保管できる情報は社会全体が保管している容量のほんの一部でした。ある情報に行き着くためにはどの本にアクセスすればいいかのインデックスを持っていて、かつ特定の分野の智をできるだけ自分の脳に溜め込んでいるのが旧来の「物知り」だったと思います。また、その本へのアクセス権すら権威によって制限されました。民主主義になって地域に図書館が整備されたのはそのためです。まずはこの経緯を無視してはいけないと思います。

さて、紙の本が社会の全体智であるという通念がここ最近で陳腐化してしまったのはご存知の通りです。日本だけ見れば、全国民にインターネットへのアクセス権が行き渡り、その奥には無尽蔵かつ国境すら超えている大量のストレージに社会智が保存されているのです。そしてGoogleがストレージに眠る情報をデータベース化しそのアクセスを最適化し、誰でもアクセスできるようにしました。そこで情報が恣意的に整理される危険性があり、人間の思考が影響を受けるのは、人間が外部に接続されることによって機能することを証明していると思います。一方で、より個人的、例えば口コミのようなアクセスルートさえ、SNSの登場によりインターネット経由となっています。

大前提となる「知性の実体は人間内部ではなく外部にある」は正しいとしたうえで、その外部環境が大きく変わったことで、大学や図書館の意義が大きく揺らぎ、現在、教育や研究とは何か再定義が求められていることは簡単に想像できます。

これまでは教育とは、社会の全体智たる書籍に対して、どれだけの量を人間の脳に取り込み、スタンドアローンで暗記したり計算したりする能力を競っていました。私の世代の教育は完全にこの教育方法でした。参考書や問題集をたくさん買って暗記したり計算したりしました。そして、テストに対して再現できるかの確率が、点数でした。100点だと100%です。80点だと80%。そしてその優劣を問われたのが大学受験でした。これが優秀なほど希望の大学に入学することができました。

ところが、現在インターネットからほとんどの情報が入手できるようになりました。論点が変わりました。無尽蔵な情報からどうやって必要な情報にたどり着き、その意味を利用可能に解釈するかということが論点に変わりました。テストで言えば、パソコンやスマートフォンは持ち込んでいいから、最適な答えを導き出しなさい。こうなったのです。暗記一辺倒だったのは紙の本のアクセスしにくさからもたらされたのであり、インターネットによって情報処理能力を競う時代となったのです。

情報処理自体が人間の能力の優劣となったとき、それではその能力はコンピューターに代替できないのか、これが2019年の最大のトピックであり、旧来とは全く違う論点なのです。大昔のAI論争と違うのは、人間が情報処理の能力を競っている時代に突入したという環境です。もしAIが実現できたら、人間の活動自体の多くはコンピューターにより代替できるということになります。そして、今やテキスト情報ベースでは実現すらされてしまっています。最近スマートフォンを触っていると、検索すらしていないのに、自分が知りたい情報が勝手に出ていませんか?。あなたの知らないところで勝手に情報処理がされている。人間の活動にAIがどんどん染み出てきているのです。

このテキスト中心のAIが、今や人間の認知(画像・映像・音楽などの非テキスト情報)まで及んできています。Googleレンズはその一部で、写真に撮るとスマートフォンがそれ何か教えてくれます。書籍が基本的にテキスト中心なのでテキストに収まっているうちはまだ、これまでの書籍の置き換えにしか過ぎませんでした。データが非テキストになりこれをコンピューターが計算しアクセスできるようになった時点で、過去のシミュレーションではなく新しい人間の情報処理の形であると言えます。そしてこれまだ始まったばかりです。コンピューターの、非テキストデータに対する情報処理能力が日々進んでいるのです。

一方で、情報処理能力が競われる時代に突入した今であっても、人間が絶望することはないと思っています。無から価値を作り出す行動、たとえば絵画であったり音楽であったり、映画であったり。これは情報処理能力だけでは説明できないのです。あくまでも全体智から何かを取り出し利用できる状態にすることを処理と呼んでいますが、無にはその材料がないのです。したがって、イノベーションの能力は人間に求め続けられるでしょう。また、対極的な話ですが、人間と人間の利害を調整する能力も情報処理能力を超えたところに位置していると思います。情報処理能力を突き詰めているアメリカが、トランプ大統領を選んだことが興味深くてたまりません。そして情報処理自体は善でも悪でもなく、恣意的に捻じ曲げることが可能だとわかりました。昨今のフェイクニュースや、厚生労働省の統計の捻じ曲げ、フェイスブックの個人情報漏洩、中国の情報統制などを見れば、コンピューターが最善を計算してくれるというのは幻影だということがわかるのではないでしょうか。

コンピューターは客観的に計算するので正しい答えを導き出す、というのは人間の錯覚だということがわかります。コンピュータの情報処理能力を過信せず、最後は全体智の根拠まで自身で確認し、最後は自分の頭で考えなければいけないのは興味深いです。人間に求め続けられる能力は、最後は自分で結論を処理するという機能です。

 

まとめ

まとめますね。

・人間の智は外部にあるというのは、今に始まったことではないこと。

・全体智の保管方法が書籍からデジタルに変わり、かつアクセス権が民主化されたこと。

・人間の能力のものさしが、暗記・計算能力から情報処理能力に劇的に変わったこと。

・テキスト情報を探し出すだけならばすでにコンピューターが人間を代替している。非テキストの分野も時間の問題。

・本当に欲しいものを取り出すためには人間側に情報処理能力が必要。

・取り出された情報が恣意的になっている可能性があるため、最後は人間の判断が重要。

・無から価値を生み出すことは情報処理能力だけではできないから、人間に求められ続ける。

・一方で、人間間の利害調整も、情報処理能力ではできない。トランプ大統領の例など。

・様々な情報処理の結果、最後に判断を最適化するのはどこまでいっても人間だということ。

ということです。

IT業界にいるとどんどんコンピューターが人間を侵食すると思いがちですが、こんな時代でも私たちは歯を毎日磨きますしお風呂にも入るし、誰かを嫌いになって喧嘩したり、好きになって恋に落ちたりするのです。地に足を着けて毎日生きていけばそれなりに楽しいことが待っていると思いますがいかがでしょうか。