orangeitems’s diary

40代ITエンジニアが毎日何か書くブログ

AIに負けてたまるか的な話

 

このところの、具体的には10月辺りからアクセスが落ち込んでいる現象。なんとなく底を打った感じだがまだ上り調子とはいかない。

もしかしたら、いやかなりの確率で、ChatGPTなどによる自動生成ブログのようなものが大量発生していて、その中に埋もれはじめているのかもしれないね、このブログも。

確かにChatGPTが生成する文章と、私が頭の中で思考して書いているこの文章に対する定量的な差を表現するのってかなり難しくないか。私は経験によりこのブログを書くことが多いけど、その経験すらインターネットの多数の経験を元に再現できてしまうのではないか。ChatGPTは平気でウソをつくので信用ならないが、ChatGPTが作った文章であることを隠してしまえば、個人ブログの書きっぷりと何が違うというのだろう。そもそも個人よりChatGPTの方が信用できるという人もいそうだし。

こうやって思いを書き連ねる、ということの質というより、量の問題である。例えば天然の砂糖と同じような人工糖分を使って、とても格安にケーキを作る技術が発展したとして、それでもサトウキビから抽出して天然材料で作ったこのケーキの価値はどう評価されるのだろうか。おいしければいいじゃん、みたいな、雑な情報処理をされて、無になってしまうのか。大量生産がハンドメイドを駆逐するのか。

いや、なんとなく今の世の中を見渡すと、天然・アナログ・手作り・ここに一つだけ、みたいなキーワードにとても刺さるような気がしている。土日の度にフリーマーケット(最近はマルシェと言うらしいけど)が開かれて手作りのものがたくさん出ていて売れているみたいだ。

おそらく大量生産的なプロダクトには皆飽き飽きしている。飽きているが必要なものはもちろん手に取るわけだが、それより、誰も持っていないもの、誰も体験していないものが欲しいのだ。

だから、大量生産的なプロダクトが、手作り的なものに駆逐されることは絶対なく、基本は安くて丈夫で人気の大量生産に引っ張られる。一方で、手作りも残る。残る上にますます価値を持ち、高い値段がつき、それでも購入する人が現れる。

ブログ界というかテキスト界に、ChatGPTが現れてインターネットのテキスト量が膨張し、それによって私のブログが埋もれようとしている今、じゃあ書きません、とはならない。例えばビールなんてスーパーに行けばいろんな種類のものがたくさん売っているにもかかわらず、わざわざ一杯1000円もするクラフトビールを飲みたいと思う人もいるわけだ。

その価値を出すためには、何が必要だろうか。

・品質の高いレベルでの一貫性
・そこにしかない(所在性)
・量が限られている(量的制限)
・人の顔が見える(個人のブランド)

それぐらいだろうか。

ま、四の五の言わず、これからも書き続けていくだけである。作品の本数を減らそうと思ったけれど、結局は元通り一日二回投稿している。習慣になっちゃったので変えるほうが難しかった。ま、いろいろあるだろうが、ぼちぼち書いていく。