会社でも家庭でも、人間は何かに属している。
属している対象は組織と呼ばれ、組織に属す以上は暗黙のルールを守らなければいけない。
明示的なルールとして、国の法律や自治体の条例などがあり、それは当然守るとして。モラルや常識、のような見えないルールが存在している。
この世に生まれて、教育を受け、見えるルールと見えないルール、両方を人は学ぶ。
見える方はまだいい。解釈は判例で決まっていくし、もっと微妙なものは裁判で決着が付く。基本的には世間の動向を確認しておき、普通の暮らしをしていればそこまで気を付けないといけないものではないと思う。明示的なルールについて、そこまで大きく突如変化したことはなかったように記憶している。
問題は、暗黙のルールの方だ。
暗黙というだけあって、どこかに明文化されているわけではない。必ず存在している割には、場所によって微妙に内容も違う。しかし、ルールなだけに、誤った場合は何らかの制裁を喰らうという不条理な現実である。
私は田舎の出身で中学までは、田舎の中の田舎みたいな場所で育った。そこから都会の高校に寮生活をして、そこから上京し一人暮らしを始めた、という幼少期を送った。
多分、このルートが非常に私にとって過酷な環境変化だったんだと思う。
暗黙のルールがわからなかった。
わからないとどうなるかというと、「空気が読めない」となる。そして昔は、インターネットなんぞなかったわけである。情報がない。だから周りのことがよくわからなかったし、毎回のイベントが未知のものでドキドキして過ごしていた。情報量多すぎ、だった。
当然のごとく、暗黙のルールにビタビタと突っ込んでは失敗するわけである。人が普通しないような失敗を毎回踏む。
失敗したら、学ぶよね。二度と失敗しないようになろう、って。
インターネットがまだなかった時代に、暗黙のルールと葛藤してきたため、身をもって知ることができたのは実は今となってはアドバンテージとなっている。
今の世界、空気の形成をするための「情報」があふれている。こういうときはこうしたらいけない、こうすべきだ、みたいなノウハウ情報ばかりだ。
昔はきっと、私も含め、他人の心の中がわからない世界を生きていたので、お互いに人の心を傷つけあっていたんだと思う。傷ついたことさえシェアされないものだから、やったもん勝ちみたいなモラル感すらあった。
今はどうだ。楽しいはシェア。悲しいはシェア。痛いはシェア。
デジタルで人の心は緩くつながり、そして、やってほしくないことがシェアされ、やってほしくないことをやられた人は、その事実をシェアするようになった。
結果、今の組織は、歴史的に見ても面白いことになっていると思う。暗黙のルールが、半ば明示的なルールと同じくらいのパワーを持っている。
さて、長い長い前段はこれでおしまい。
今や、暗黙のルールがあまりにも広範囲であることがわかっている。おかげで、私は生きやすくなった。ああ、こんなことで人は嫌な気持ちになるんだ、ということが、少しは理解できるようになった。
少しは、と注釈をつけたのは、それでも理解しかねることが起こるからだ。どんなに気を遣ったところで、地雷を踏むときは踏むのである。
その中でも、最近感じるのが「不満を口に出した人が負け」という世界観である。
不満がないと進歩しないのでは、と思うかもしれないが違っていて、「組織の調和を乱す」のだ。口に出すのではなく、それを改善するような行動を提案し、自ら動くことを求められている。そういうルールになっている。
おかげで、最近の若手は、何も不満を言わない。
不満を言わないので、どうなるのかというと、顔が青くなるのである。
なんでも、ためこんだらあふれるよね。
だから、この世は、インターネットにより進化したかというと、してないんじゃないかと思っている。暗黙的だった矛盾が、明示的に矛盾するようになったんじゃないか、と。
インターネットで人の隠された部分を知れば知るほど、それ、矛盾してるよね、って言いたくなる。
たまには失敗してでも、痛みを感じてでも、暗黙のルールを突き破って行動しないと、身動き取れなくなるよと思うことが多いんだ、最近。