orangeitems’s diary

40代ITエンジニアが毎日何か書くブログ

社会を変えようとする運動全てに思うこと

 

夏休みは暑くてどうしようもないので家に籠っているが、おそらく世間も夏休みな人が多くていろんな言論が目に飛び込んでくる。その中でも多いのが、社会はおかしい、こうあるべきだ、という一種の愚痴のような話だ。一種の社会変革運動と言えるとは思うが、なんとも滑稽だなと思うことがある。

というのも、社会を変えるために「社会を変えよう」と言ってまわるのは、意味があるかということだ。一個人がどうこう言おうが社会はそこにあり、自分がいなくても回っている。そこに介在してああだこうだ言う人間はうるさいだけなんじゃないかな。

本当に変えたいと思うならもっと狡猾であらねばならぬ。社会のルールを決めているのは誰だ。日本においては建前的には民主主義なので、たくさんの人々が要所要所で責任を持ち、ある程度全体を見ながら柔軟に物事を決めていると思う。その方式がうまく機能していることもあれば、前例主義で効率よりも過去の経緯が優先され、時代と合わなくなっている場所もあろう。また、権限が強すぎて特定の人物の利益が優先されてしまっていることもある。いろんな場所があって、そしてけん制し合って社会が成立している。

複雑性の高い社会のとある側面に、正論を持って突っ込んで、おかしい!変えたい!、と叫ぶ権利は誰にでもありそれは表現の自由で説明される。しかし、どう考えても、それが効果を表すとは考えにくい。今ではSNSがあり、評判になってたくさんの人の目に触れたり話題になったりすることもあるが、所詮1日2日、関係のない人物が大騒ぎしてそして忘れるだけの話である。社会を変えることにはならない。

社会を変えようとする運動を組織化することも良く見るが、それが正しく機能しているのも私は否定的で、どこかで権力側とつながって不満のガス抜きしているだけ、というパターンは非常に、非常によく見かける。活動資金すら権力側から出るので、自己完結型であり大した要求もせず、その姿勢だけを派手に喧伝するだけと言うのが特徴だ。

つまり、本当に社会を変えようとするならば、権力側に立たなければいけない。当事者にならなければいけない。現在の権力側と反目するのではなく、協力体制を気づき基盤から侵食し、中に入り込まなければいけない。変えたいと思う人は、大っぴらに社会運動化してはいけない。さらりと通常運転をしているフリをして、さっと大胆に物事を転換し、そして何も無かったかのように日常に大衆を引き戻すくらいの胆力が必要なのである。

だから、ネットを見ていても、実際のところ陽動作戦のようになっていて、社会の不満をかき集めながら、それでも権力者は何もしなくて済むみたいな状況を強く感じるのである。一緒に参加している人たちも、おそらく社会が変わるはずはないとは知っていて、それでも同じ意見を持っている人たちを共感をシェアし、ソーシャルを確立することで、社会参加欲求を満たすみたいなところがあるんだろうな、と冷ややかに思っている。

思っていることを書き並べたら、何だか冷ややかな意見になってしまった。どうせ冷たいならこのエネルギーを持って、果てしなく暑い夏が少しでも涼しくなってくれたらいいなと思う。