orangeitems’s diary

40代ITエンジニアが毎日何か書くブログ

人間としての面白さ、ってなんだろう

 

君って面白いね。

この言葉が持つ呪いが強化されるのはおそらく、小学生くらいの時代だと思います。子どもは正直で、あまり相手を知らないうちであっても打ち解けられ、おかしみのあることを即時に返すことができる人間を好みます。一方で、熟慮しなければ言葉を返せず、しかも人見知りで緊張してしまうような人は、面白くない人、と評し、評価を下げてしまいます。そんな人間関係構築は、大人になるとそこまであからさまではありませんが、未だにあると思います。面白い人。面白くない人。

テレビをふとつけていました。最新ニュースを見ながらのトーク番組。あからさまに「面白くない人」がいました。客観的な意味で。その会話に対してあるキャストが、またあからさまに、「そうよね・・なぜなら・・」と受容的な発言をしていました。

端的にすごいな、と思いました。面白くない人の発言を茶化したり、いじったりすることはよくあります。しかしそのキャストは、考え込みながらもできるだけ受容しようとする姿勢・発言を崩しませんでした。

大人の世界は、子どもの世界とは少し違っていて、この受容性のようなものが問われているのではないかと思うことがあります。簡単に面白さで人を判断しません。いきなり相手に踏み込むことはせず、だんだん距離を縮めます。相手なりの距離感を保ちながらできるだけ話しやすい雰囲気を作る技術です。会話力でテレビに出るほどになった人だから、かなりの高スキルなのは間違いないありませんが、何がスキルなのかを感じられるかどうかは人それぞれです。私自身はここ最近になってからです。

なぜ受容力がある方がよいのでしょうか。それは、「人間はみんな面白い」からです。ここがポイントです。誰しも面白さを持っています。ただ行動・言動として何が出るかはいろんな制約によって違います。面白いと言われる人は、ただただ環境因と個性が一致して、外に出やすかっただけでです。AIをこれだけ面白がっているのだから、人間は「人間の面白さ」に大変興味があることは間違いありません。コンピューターで再現できないと思っていたことができるとわかった時の食いつきがすごいです。

社会活動とは基本、複数の人数で行うものであって、人数が大きければ大きいほど大きい力を発揮します。その時、例えばマネージャーが、それぞれのメンバーのことを「面白い」「面白くない」で分別していったら、面白くないと判断されたメンバーのパフォーマンスはぐっと下がります。

相手が例え面白くない、と言う反応をしても、温かく受容し、相手がリラックスし楽しくなり面白い反応が返ってくることを信じて待つことです。

これって接客業の基本、なのかもしれません。客は選べないからです。面白い客とだけ相手したいと思う飲食店はだいたいうまく行きません。それはきっと、商売する上での前提がおかしいのです。

逆の見方ですが、自分が面白い人でいなきゃ、と思うことを私自身はやめています。なぜかというと、全員が面白いと言う仮定であれば、私自身も面白いはずだからです。面白くないとしたら環境に問題があるので、であればじたばたしてもしょうがないのです。ある意味、面白く居ようとしないほうがかえって面白いのかもしれない、ぐらいの逆説的な考え方で人前にいるようになって、ちょっと楽になったところもあります。子どものころの呪いが解けたのかもしれませんね。