orangeitems’s diary

40代ITエンジニアが毎日何か書くブログ

承認欲求の逆、行き過ぎた承認の話

 

最近、よく承認欲求の話題が出る。

いいね、やフォロワー数を増やすと、自分が他人から存在を認められているという感覚を得られるらしい。それを承認欲求と言って、人間に生理的に備わっている欲望だという。それを満たすために、非倫理的な行動すらしてしまうインターネットの悪い側面が度々話題に出る。

会社においても、社員がそれぞれの承認欲求を抱えていて、あまりにも仕事上無視されている感覚に襲われると退職したくなる。それではまずいので、近年では上司が部下に1 on 1ミーティングを定期的に実施して、会社から「見られているぞ」という感覚を社員に供給する仕組みがある。また、ゲーミフィケーションといって、いい仕事をするとポイントが貯まるみたいな仕掛けも一時期流行った。

そんな承認欲求だが、私はどちらかというとそこまで高くない。むしろその逆方向、自分が承認され過ぎる状態がすごく気持ち悪い。あまりにもたくさんの人から期待されたり、もしくは特定の人から過激に指示されたり、そういう状況で感じるのは、見えないプレッシャー、である。

そんなに高い支持をされてしまったら、今どういう風に自分が話して、歩いて、行動しているのかわからなくなる。自意識過剰と言うべきか。

存外に高く支持されてから、谷底に落とされるということが怖すぎて、いやいやそんなに承認しないでよ、と、言葉にはしないが身を引くような制御も時には必要じゃないかと、今では思う。昔はできなかったけど。

自分が他人からどう承認されるかは、どう考えても制御できないので、よく楽曲などで現れる「ありのままで~」は防御的反応なんだと思う。承認され過ぎている状況において身動きが取れなくなった心理状態で、何周か周ってたどり着く境地が「ありのまま」だ。その際に、ありのままにしたことで周りに失望をいくら振りまいたとしても「私は寒くないわ」である。あれは気合、根性の類である。

メディアニュースを見ていて、ある程度の地位を得たインフルエンサーが、私もう活動辞めます、みたいな話って、他人からの承認が暴走した結末を示していると思う。期待に応えよう応えようとするあまり、自分がわからなくなり、自分を自分で承認できなくなる。他人を演じているような気持ちになる。他人の承認を集めようとして自分の承認を失くすというのは皮肉な話だ。

この、強い承認が自分に向かってきたときに、どうすべきかというのは実は興味深い命題である。どんな人にも起こりえる。他人を承認しやすい世の中だから。

大事なことは、その強い承認が存在することは受け入れた上で、それを真正面から浴びないことだと思う。人の反応を見に行かない。見てしまうものについてはしようがないが、自分から見に行く必要はない。他人の承認を、自分の行動の理由にしない。大事なのは自分が自分を承認できるか、だ。自分は一人しかいないから、それがプレッシャーになることはない。他人は日本だけでも一億人いるのだから、関わってもキリがない。

自分を相手にする。これがポイントで、それを貫く限りどんなに他人から承認されようがプレッシャーにはならなくなる。そう振る舞っても他人の承認が増えたら、それは自分自身に自信を持っていいと思えばいい。あくまでも参考程度の数字と考えること。

このソーシャルネットワーク時代、人の気持ちが見えすぎて、心のバランスを崩す人が続出である。承認され過ぎた時の気持ち、もっと人々が考えてもいいと思う。