そうそう、昔は「ネアカ」「ネクラ」って言葉があった。
これ、1982年、タモリさんが流行らせた流行語らしい。私が8歳の時だから小学3年生のころ。そりゃ、影響受けて当然の年頃。
人の性質を2つに分ける言葉。今でも「陽キャ」「陰キャ」って言葉があるけど。ニュアンスは少々違うらしい。そこは論じない。
この「ネアカ」「ネクラ」って、当時、いじめ問題の原因になるほど話はおおごとになっている。ご多聞に漏れず、私も「ネクラ」と呼ばれるのがすごく嫌だった。「ネアカ」とみなされたいと強く思っていた。「ネクラ」なのに、多分、って。
みんなの前で大声ではしゃいで、注目を浴び笑いを取れるヤツが一番、という昭和の価値観からの脱却が大事。
— orangeitems🍊 (@orangeitems_) September 8, 2022
今日、こんなツイートしたんだけど、私はこの呪縛にきっと40年くらい悩まされてきた気がする。気づいたのはここ最近である。世の中の人のつながりは、ネアカが作るものじゃない。ネクラで疎外されるものではない。誠実に、人の話を聴いたり、率直に感想を述べるだけでいい。大きな声を出さず、相手の気持ちを感じ許容し、感動したら相手に伝え、そして何も言うべきことが無ければ静かにする。自然に寄り添うことができるだけで十分なのだ。
人前では、面白いこと言わなきゃとか、深い話しなきゃとか、そういうことは全くなくて、ただただ穏やかに気のままに話してりゃ基本的に好感触なんだって知ったのが、もっと早かったらよかったのに。とは思うけど今からでも遅くない。
— orangeitems🍊 (@orangeitems_) September 8, 2022
ずっとずっと、人前に立っては、焦っていた気がする。何かしないと「ネアカ」に思われない。「ネアカ」を演じようとするのは、「ネクラ」への恐怖だったんじゃないか、と思うことがある。それは小学生の時に刷り込まれた、何か苦しいもの。
でも、ここまで社会を見て、感じることとして、ネアカが人の中心であることは、ない。中心にいる人は、いつだって穏やかだ。礼儀があり、人の話を聴き、決めつけない。相手を傷つけることなく、そして言うべきことをちゃんと言う。
もう、ここまで来たらわかる。あれは「幻影」であり、「実体」ではない。
この、「ネクラ」コンプレックスって、我々の世代に独特のものなんだろうか。もしくは私だけなんだろうか。よくわからないが、もはや私は「ネアカ」でもなく「ネクラ」でもないと言うことだけは言える。私は私であり、誰かに対峙しているときに、最も私の価値を表現することは、リラックスして私で居続けること、である。変に取り繕って「ネアカ」を演じたところで、リアリティーもなく本意でもなく、いわばウソなのでうまくいかないのがオチなのである。
ただただ、正直に誠実に、人と接することが一番だなんて、ね。