orangeitems’s diary

40代ITエンジニアが毎日何か書くブログ

「ネアカ」「ネクラ」を引きずっていたことに気が付いた

 

そうそう、昔は「ネアカ」「ネクラ」って言葉があった。

これ、1982年、タモリさんが流行らせた流行語らしい。私が8歳の時だから小学3年生のころ。そりゃ、影響受けて当然の年頃。

人の性質を2つに分ける言葉。今でも「陽キャ」「陰キャ」って言葉があるけど。ニュアンスは少々違うらしい。そこは論じない。

この「ネアカ」「ネクラ」って、当時、いじめ問題の原因になるほど話はおおごとになっている。ご多聞に漏れず、私も「ネクラ」と呼ばれるのがすごく嫌だった。「ネアカ」とみなされたいと強く思っていた。「ネクラ」なのに、多分、って。

 

 

今日、こんなツイートしたんだけど、私はこの呪縛にきっと40年くらい悩まされてきた気がする。気づいたのはここ最近である。世の中の人のつながりは、ネアカが作るものじゃない。ネクラで疎外されるものではない。誠実に、人の話を聴いたり、率直に感想を述べるだけでいい。大きな声を出さず、相手の気持ちを感じ許容し、感動したら相手に伝え、そして何も言うべきことが無ければ静かにする。自然に寄り添うことができるだけで十分なのだ。

 

 

ずっとずっと、人前に立っては、焦っていた気がする。何かしないと「ネアカ」に思われない。「ネアカ」を演じようとするのは、「ネクラ」への恐怖だったんじゃないか、と思うことがある。それは小学生の時に刷り込まれた、何か苦しいもの。

でも、ここまで社会を見て、感じることとして、ネアカが人の中心であることは、ない。中心にいる人は、いつだって穏やかだ。礼儀があり、人の話を聴き、決めつけない。相手を傷つけることなく、そして言うべきことをちゃんと言う。

もう、ここまで来たらわかる。あれは「幻影」であり、「実体」ではない。

この、「ネクラ」コンプレックスって、我々の世代に独特のものなんだろうか。もしくは私だけなんだろうか。よくわからないが、もはや私は「ネアカ」でもなく「ネクラ」でもないと言うことだけは言える。私は私であり、誰かに対峙しているときに、最も私の価値を表現することは、リラックスして私で居続けること、である。変に取り繕って「ネアカ」を演じたところで、リアリティーもなく本意でもなく、いわばウソなのでうまくいかないのがオチなのである。

ただただ、正直に誠実に、人と接することが一番だなんて、ね。