orangeitems’s diary

40代ITエンジニアが毎日何か書くブログ

正しさと、もっともらしさと

 

顧客に価値を提供するときに、正しさを提供すると思っている人は多いことだろう。システムが正しく動く。ドキュメントが正しい。運用オペレーションが正しい。報告が正しい。請求金額が正しい。全部正しいことを前提に顧客と自社との契約は成り立っている。間違えがあったら不信感が生まれるし、間違えないように改善策を作って説明し納得してもらうし、そもそも間違いがないように襟を正す。正しさ。間違い。この二極が揺れ動いて仕事が成り立っているという説明はとてもわかりやすいし、不自然なところはない。

しかし、それは違うと思う。

正しさなんて顧客の中の主観に過ぎない。顧客が商品やサービスの全てを知っていると思ったら大間違いだ。顧客が厳しい目でチェックして問題ない、正しい状態だ、と信じるためには何が必要かと言うと「正しいっぽいこと」だ。うん、どこからどう見ても正しいしきっと正しいんだ、くまなく調べなくてもいい、それは信頼とかブランド価値という言葉に代表される。私は「もっともらしさ」と読んでいる。

顧客と対応していて、「あ、ここちゃんとできてねえや」と気づくときがある。もちろん表情は崩さない。その会話はちゃんと終わらせる。終わらせたら大急ぎでできていない部分の見直し、できれば修正まで終わらせる。顧客には知らせない。もとからそんな不完全な部分、なかったのだ、これで、正しさは補完されてしまうのである。

もしそのリカバリーに不備があり、何かご迷惑をかけてしまうような事態が発生し、理由を説明するのにその「もっともらしさの演出」がバレてしまうようだと、これはもう改ざん、ごまかし、である。だからリスクがある。そのリスクをどうするか考えたときに、「これはちゃんと顧客に言って誠実に対応しよう」というときもある。もっともらしさばかりを優先するより、誠実に対応することも時には重要だ。顧客はその姿勢すらも「もっともらしい」と思う。

なぜにこんなことを書いているかというと、正しさ一辺倒の人がいるからだ。世の中の正しさなんて相対的なものであり、どうもっともらしさを継続するかがビジネスの本題であると私は思う。法令違反となるごまかし、例えば検査不正、義務付けられた報告をしない、などはこれは言語道断。そうではなく、曖昧な部分において、顧客が信用し続けられる状況を継続することにおいて、ある程度の矛盾を飲み込んで正しさを作っていける覚悟があるか。実のところサービス品質は、そういう「見た目の部分」で大きく査定が変わると思っている。

だって、細かい問題が起こる度に顧客に報告し、それは弊社の前の手順がおかしかっただの、設計ミスだっただの、バカ正直に全部顧客に打ち明けていたら顧客も呆れてしまうのだろうと思う。

日々の仕事を振り返ってみると、その「もっともらしさ」を作るための仕事の量も結構なボリュームがあり、なんだか社会人って、誠実/正直だけでは暮らして行けぬな、という実感を説明できる状況となっている。そして「もっともらしさ」が継続する時間が長くなれば長くなるほど絶対的な信頼を得ていく。私に預けると余計な問題がなにも起こらないけど、後ろでいろいろやってるんでしょ?ありがとね、という深読みしてくる顧客もいるぐらい、顧客もビジネスをわかっていたりする。

もっともらしさは、破綻すると悪になる。今年はそんな企業・団体をたくさん目にしたな。夢を作る企業だったはずなのに内部はそんなことになっていただなんて。そういうことである。もっともらしさを作り続けるのがビジネスであると言っても過言ではない。