orangeitems’s diary

40代ITエンジニアが毎日何か書くブログ

主体的である、の本当の意味

 

7つの習慣は名著である、と定期的に言っておきたい。

 

 

で、まあそれはそれとして、第一の習慣に「主体的である」と言う言葉がある。

この概念、ものすごく誤解されがちな気がするので説明しておきたい。

一番ピンとくる話があって、もしあなたが監禁され、イスに固定され手足をロープ縛られ・・とかなり物騒だがそういう状態になったとする。

さて、何も動けない。

しかしそんな状況であっても、頭はまだ考えることができる。思考することができる。どんな悪意や非情な状態でも、それでも自分は自分で考えようとすることができる。

これが「主体的」であると言っている。最後の最後まで自分の頭で考えることを失わずに、自分から行動する選択肢は取り消されることはない、と7つの習慣は言っている。

 

ところが、よくある誤解としては、何でも自分の思い通りにせよ、と翻訳されてしまう。自分本位、自分中心、自分が他人より優先する、みたいな話にすりかえられてしまうし、そういうそそのかしをする人が多い。詐欺や洗脳の手口でもあると思う。

あなたは自分でもっと自分のことを考えるべきだ。他人のことを気にしたらいけない。自分で決めて行くことが自分の人生だ、だから、決断しましょう、なんてね。

突飛なことを相手に勧めて、本人に決断させるときのごまかしのロジックだ。そりゃ、自分で決めるんだけど、誤った選択をしても自分で決めたんだから、それは正しい選択だ、見たいに言うのだ。

それは、全然主体的じゃないよ、人に勧められてるんだもん。人にそそのかされて自分で決めた、って全然自分の頭で考えてないよね。

どんなに周りの環境が劣悪だったって、自分の頭で自分なりに考える選択肢は失うことがないよ、という意味なんだからそんなん、自分で考えればわかること。目の前の相手が自分を騙そうとしていることなんてすぐわかることだ。

自分で決断することが偉いんじゃない、自分の頭で考え何が正しいかを自分の中で結論を出せることの方が大事だ。そこまでしないと決断なんてしてはいけない、安易な決断が不幸を生むのは、それは当たり前だろう。大事なことこそ、自分が納得するまで自分で考える。

 

私は、もともと協調性に乏しいのもあって、自分の頭で理解して考えることなしでは何もしない。そのため、他人から理解されにくく独特で、苦労を多くしたこともあったが結局その志向を何ら変えることもせず(できず)、それでも楽しく生きてくることはできた。

「主体的である」というのは私にとっては、努力目標というよりは、もともと持っている性格であったのでこの点で苦労したことはない。むしろ、ああ、今のままでいいんだと励みになったぐらいだ。

おそらくこの命題、普段主体性を意識していない人に対しての警告である。人が言うから、流行っているから、という理由で選択していないか。もっと目の前のものを見て観察し、自分の情報処理能力を活かして判断性せよという意味である。決して、盲目的に自分で決断せよと言う意味ではない。

AIに歓喜する前に、自分の頭の中に入っている脳みその性能をもっと有効活用すべきである、と思う。