orangeitems’s diary

40代ITエンジニアが毎日何か書くブログ

人を教えることに対する無根拠な自信

 

私は学生の頃から、授業を受けるのが苦手というかほとんど聞いてなくて、でも自習してテストの点数は結構良かったので、教師から見たら嫌な生徒だったと思う。

でも、いつも変だと思っていて、答えは全部教科書に書いてある。だったらあんなに毎日拘束してだらだらと黒板の前で話し続けなくたって、その時間机で教科書を見て自習したほうが効率がいいんじゃないだろうか。だったら1年の範囲を2か月もあれば学べる自信はあった。

テスト勉強だって、テストの二週間前ぐらいからぼちぼち始めても全然間に合ったし、学校ってのは非効率な場所だな、なんて思ったものだ。

おかげで、そもそも人は人に教えることが下手で、私が人に教えたらもっと効率よくかつ要点を伝えられると長い間思い込んでいた。

 

しかし、社会人になって、いざ人を教える立場に立つとわかった。ああ、私は人を教えるのに全く向いていない。私が人に教わることが苦手なので、人に教えるということ自体が想像できていないのだと思う。人に教える喜びみたいな感覚を欠損している。どこかの時点で諦めた。誰かを引き上げるという努力をするのを止めた。

その一方で教育方面の仕事を全く放棄したかというと、止めなかったこともあった。私が高度な仕事で「わかった」プロセスをドキュメントで残すことを心がけた。私が誰かを直接教えるのではなく、教材を作ろうと思った。誰かが私を追って勉強したときに、おそらく引っ掛かるであろう壁のようなものに先に立ち向かった先人としてメッセージを残しておこうと思った。

 

教えるということは、教わる相手の進度に合わせて帯同していく心持ちが必要だ。「どうしてわからないの?」と一言でも言ったら信頼関係が終わる気がする。そのホスピタリティーが私にはなかった。ただ、何を知るべきか、はわかる。だから知るべきことの言語化だけを頑張ることにした。あとは、誰か、ホスピタリティーの強いどなたかが教材を使って教えてくれるか。もしくは私と同じタイプつまり自分で勉強して身に着けようと言うタイプを待とうと思った。

よくよく教育機関を観察すると、ちゃんとカリキュラムを作り、学習順番、学習範囲、そして理解度チェックを設定している。教える人が焦れないように、機械的に教育ができるようになっていて、そういう風に教育というのはやらないと基本的には機能しない。

ところが、自分がそのプロセスに乗れなかったからと言って、自分なら革新的な教え方ができるんじゃないかと思ったのが、あれは甘々だったな、と反省している。

そもそも会社員って、人を教える、教育については何の知識もないことも多く、それが感覚だけで先生の真似事などできるわけがない。専門家ではないことを自覚し、もし必要あらば教育機関にアウトソーシングしたり、本人の学習意欲を信頼し教材を与えるなど、深入りしない姿勢が大事じゃないかな、と思う。私は失敗すべくして失敗したのだけど、この話が分かっていればやり方はあったんじゃないかな、なんて思う。