orangeitems’s diary

40代ITエンジニアが毎日何か書くブログ

天才は作られるのではなく、自ら育つのみである

 

人生観の話になるんだけど、誰かが何らかの分野で成長して、天才と呼ばれるほどの大成功を収めるとする。じゃあその分野のプロフェッショナルが彼を鍛え上げて、素晴らしい才能を開花させるのかというと、私は完全に間違っていると考えている。

大成功したとして、これは完全に彼自身の成長であり、誰かが鍛えたためじゃない。鍛える活動をしたとしても、彼が自分自身で進んで行った成果であり、指導の賜物ではない。

おぼえたての頃は、師と生徒の間にすごく能力の差はあるのだけど、時間と共にその差は縮まっていく。ある程度の基礎レベルまで引き上げたら、あとは自分自身の問題なのだよ、としか言いようがない。

そのレベルまで達して、ああ、師はこれ以上引き上げてくれないのだと悟り、そして自分自身が自分を引き上げることを諦めたり、放棄したときに、人はその道を志すのをやめる。そういう姿を何人も見て来た。

私は、ここで終わりです、と言うニュアンスのことを絶対に師は言わない。いつだって、本人が選択する。

芸事、絵画とか音楽とか、スポーツでもそうなのかもしれないけど、(学生時代において)この有名な先生に習うと全国大会レベルにまで行ける、みたいな話がある。実際、その先生に習うとたくさんそういう人が出るんだけど、じゃあそのまま大人になって彼らが活躍できるかというと、そうでもない。むしろ進学の途中で辞める人の方が大半である。

全国大会レベルに行った子たちは、先生が言うことを「そのままトレースする」ことを上手にやったことで評価を受け、それを自分の実力と考えて自尊心が肥大する、という事例が多い。

このやり方が悲惨なのは、自分自身が成長しようというのではなく、評価を受けるための方法を極めようとしてしまうことである。

むしろ、先生から習う「型」を習得することに時間の大半を使ってしまうため、いざ、先生を離れて自分自身で考え、悩み、大きくなるようなフェーズに進んでいくと何もできなくなってしまうのだ。

良い先生につく理由は、型のトレースではなく、極めるとは何かをこの目で確認できることのはずだ。有段者のパフォーマンスを間近で見て、どうそこに近づくかを自身でイメージできることが一番のメリットである。基礎レベルまで引き上げたら、あとは自分で成長しなければいけないんだよ、ということを早いうちから伝えること。そして、「トレース天才」が評価を受けていても、一切無視すること、を一貫して伝えなければいけない。つまり、自分で自身を成長させていったうえで、本当に他人に評価される位置に来るまで、評価を望んではいけない、ということだ。

そしてたいてい、自分で自分の成長を促すことを止めていく人のほうが断然多い、のだ。この先生の下で学んでいるけれど伸びないから、もう自分ではどうしようもない、と。先生が自分に天才をトレースする方法を教えてくれるわけでもない、し。そうやって、続けることを放棄し、道を絶って別の道を進んでいきだす。

この件は学生時代の話にフォーカスしているけど、大人になっても実は同じことだ。誰かの技術を「パクって」天才に見せかけようとする人の多いことと言ったらない。しかし、結局のところ最後に上に上がる人は、自分で自分を育てられる人であり、誰かに教えを請い逐一指導してもらうことを望むような人が伸びた試しがない。

天才は作られない。

自ら育つのである。