9時から17時まで毎日働いて自分の時間が奪われる(むしろ通勤でもっと奪われる)のは辛すぎる、という若者の意見をニュースで見た。ああこの感想、私が初めてアルバイトをやったときの意見と似てるな、と思った。
私が大学生の時は、社会人になるのやだな、と思いつつももう二十数年も続けている。あの頃あんなに嫌だった仕事観も今となってみれば若かったな、と思う。なぜ、頭がおかしくならなかったのか。
仕事が続けられる理由を考える。
人の役に立つと楽しいから
仕事をして誰かに感謝されると、ああ楽しいな、と思う。
仕事じゃなきゃ人に役に立てないと思うから、仕事というプロセスを経て誰かに貢献するのはお金ももらえるし合理的だなと思う。
自分が仕事の制御権を握っているから
プロフィールに書いているが新規事業を起ち上げた身で、しかも起ち上げてから結構な時間が経っていて、規模も大きくなっている。
だから、私が当然マネージャーをやっているけれど、全部自分が起ち上げたこともあって、かなりのイニシアティブを握っている。
自動車の運転もそうだけど、自分がハンドルを握っていると自分は車酔いしない。自分が決められる時間=仕事、となっているので、若手が社会人に成り立てで、何の意見も言えず人の言った通り動け、みたいな位置になりやすいことを考えると、私はとても、仕事の時間ながらも「仕事の結果を出すためならば」自由に動けるというのが、若者とは違うと思う。
好きなことを仕事に選んだから
パソコンって値段が高くて、入社した当時はお金もなかったので、会社に行くとパソコンがさわれるってだけでボーナスタイムだった。
大分社会人も長くなって、パソコンも買えるし家にもたくさん置いてるし、会社のアドバンテージはなくなったけど、それでもパソコンをさわる仕事だから、楽しんでやりやすいというのはある。
時間的な束縛は受けているけど、結構仕事内容が好きなので束縛されている感じはしないし、どうせやるなら楽しくやりたいと思っている。仕事だということを忘れる程度には。
生きることと仕事をすることをマージすることに覚悟を決めているから
この社会って、基本は働かないと食べて行けないよね。
じゃあ、働くってことは生きていくってことだから、働くことを生き生きとするために戦略的に行動しないといけないのは言うまでもない。
一時期中国に、静かな退職、寝そべり族、という言葉が流行った。
「静かな退職」(Quiet Quitting)という言葉をご存じだろうか。
この言葉は、単に退職を意味するのではなく、組織に在籍しながらも契約通りの最低限の仕事だけを淡々と行い、退職したかのように精神的な余裕を持ちながら働くことである。「仕事は熱心に働くもの」という考えに一石を投じた言葉である。
こういうふうに、仕事している時間=生きていない時間、と定義してしまったら、冒頭の通りめちゃくちゃ仕事ってつまらないと思う。
肉体的には余裕が出るのかもしれないけど、精神的にはしんどくてたまらないだろう。仕事している時間は本気出さないってことだからね。
結局この言葉はあまり流行もせず日本にも来なかったみたいだけど、やっぱり無理があると思う。こんなにたくさんの時間を仕事に費やすことが前提なら、その時間をいかに楽しくするかを考えた方がいいに決まっている。
であれば、楽しさ優先で仕事を選びつつ、ちゃんと仕事としての経済性が両立しているかどうか、バランスをうまく取って仕事を楽しくあろうとすることは、社会人としての前提条件じゃないかな、なんて思う。
辛いと、続かないからね。