orangeitems’s diary

40代ITエンジニアが毎日何か書くブログ

もう数字しか見られていない

 

結局の所私の仕事を真に理解して、真に評価している人などいるのか。

私の仕事を誰か理解できるのであれば、その理解できる人が私の代わりができるはずである。そういう人がいない。中小企業あるあるだが。経営者から私、平社員から私、上下のベクトルで見ても誰もいない。

私は私自身で結構すごいことをした、と思ってもそのしたこと自体の意味を、社内で理解できる人がいなければ、それは私の中の自負、みたいな意味で止まってしまうのか。それは残念だな。超絶技巧を繰り出しても、周りが超絶技巧だと思わなければ自己満足か。ただ、ここで超絶事項がなければ現場は窮地になったかもしれないのだし、意味はある。

こんな状況を踏まえると、技術力をお金で買われているというのは何か違和感があって、買った技術力を買った人が理解していないので、何を持ってお金を払っているのかはきっと、本来とはかけ離れているのだろうと思う。

もっと数値化・言語化できるもの。

例えば顧客が高い技術力に満足してくれている、という情報があれば、それは「おお、技術力があるのだな」と思われる。部下がフォローや指示の内容に対してリスペクトしているのであれば、人にできないことができる技術力があるのだな、と思うだろう。技術力というふわっとした言葉の中に、対人コミュニケーション能力や、責任感、周りに与える好影響なども入っているのだろう。

その上で経営者に近づけば近づくほど、「売上」や「利益」みたいな数字を頼りにしだす。それらの数字が伸びていれば問題ない。すばらしい「技術力」だ、という言葉に翻訳されてしまう。

すこし寂しい話で、すごく裏側で努力して身につけた専門的な何か、は評価者の上の上の方では数字に抽象化されてしまう。超絶技巧は数字になる。1年前の私と今の私は、技術的にすごく成長しました!と思っていても、はいはい売上は、利益は、ふーん、という話になるのが会社組織の寂しいところだと思う。

この辺りの社会の、会社の仕組みを熟知した時点で、「私は技術力があります」なんてあまり人に言わなくなった。だって、ほとんど意味を為さないんだもの。人によって表している意味が違いすぎる。それより、稼ぎますよ。ビジネスわかりますよ。カスタマーサクセスしますよ、みたいな方がやけにわかりやすいと思う。それは数字と近い話だからだ。

一方で、だからといって「技術力」を磨かなくていい話ではない。もう人に理解されようとはしない。資格みたいなマウントするためのツールもいらない。ただただ、自分の知らないことを知っていくという日々を送る、それだけだ。知れば知るほどいい。数値化せず、人にわかってもらうことを放棄した時点で、あとは人のために役に立つために必要な知識をより欲しがる。貪欲に。人のために役に立つことがすなわち収入につながるのであるから、役に立つための技術力。また、自分の興味本位を優先してもいい。興味欲は、脳を活性化し、知ることのパフォーマンスを増強してくれる。

それぐらい、技術力、という言葉には冷めた見方をしている。どうせ数字しか見られてないんだ。であれば、数字を出すことを最終目的にし、そのための行動に集中する。あんまり技術力神話を信じても割に合わない。私は、お金が欲しいのだからね。