orangeitems’s diary

40代ITエンジニアが毎日何か書くブログ

生成AIの普及に懐疑的な今の私

 

生成AIについては、比較的すごく使っている方に位置する私だが、これを仕事に持ってくる気が全然しない。ある記事を読んで、メールの返信にかかっていた時間を、〇〇時間削減、みたいな話が書いてあった。いやそれなら数年前のRPAブームの時の方が派手に記載されていた。あの時浮いたはずの何万時間、企業は今何に使っているんだろう。システマティックな事務作業をRPAに任せて、人間は創造的な仕事をしようという触れ込みだったはずである。

今度は創造的な仕事を生成AIにやらせようとしているの、どこまで欲張りなの?。

生成AIを長らく使ってると、より感じることがある。全てが平均的である。全てのいくつかの平均を更に平均した、地上ではありえないような平均の答えを出してくる。もともと生成AI自体が、何らかの学習結果にて一番当てはまりそうなものを出すという仕組みなだけに、答えが全部王道的。

でもその美しい平均の答え、現実にはなかなか存在しない。世の中、全てがいびつであり、同じように見えてみんな違う形をしているというのが、とても自然に感じる。

例えば、渋谷のセンター街に人がいっぱいいる。これを絵にしたときに、全員が平均的な顔だったらどうだろう。とても怖い世界ではなかろうか。これが私の生成AI評価である。

世界の名画を学習させて、そして新しい名画を生成AIで作ろうとしたとき、確かに名画風の何かが出来上がる。しかしそれは、より平均的な作品で、何も生まない。錯覚を生み出して何も知らない人が高評価してしまうかもしれないが、きっと、平均的な何かの非日常性が、人々から避けられてしまうような気がしている。だって、人の中の何かの抽象を人が見たいのであり、どこにもあり得ない何かであれば人は何も感じない。

 

・・と、もう何千回と回した生成AIの結果を見ながら、最近そう思っている。どうにも出てくるものに飽きが来てしまった。いろいろな組み合わせは無限大なはずなのに、出てくる結果が予想可能である。それはシステムだ。システムなら生成AIじゃなくてもできるのである。

クリエイティブな装置であったはずなのに、過去のライブラリから取り出す係に成り下がっている。そもそもの仕組みがその発想に近いからしようがないと言われればそうだが、だとしたらこれは、仕事のどこに位置するべきなのか。

Google検索だとしたら、人間が書いた何らかの結論を人が見るのでいいのだが、生成AIだと人が作ったものですらない。それが人の心を打つという前提で話は進んでいるのだけど、これは今一つその領域まで来ないぞ、というのが現時点での評価である。仕事で使えるレベルではない。

今後、消費者向けにGoogle検索のように、生成AIと広告モデルを組み合わせたようなキラーコンテンツが出てくるのだろうか。今のChatGPTでも私はそのレベルに達していないと思う。むしろ時間がかかっても人がやった方が効率的で、良いものができるんじゃないか、と思っている。

システムと、人手の間、AIが入り込みそうな領域について、むしろシステムの方が追い付いてきてAIを凌駕してしまうのでは。

AIのなんちゃって結論より、システマティックに出した結論の方がより正確で、人はそちらを結局は採用してしまうのではないか。案外既存のソフトウェアも10年レベルでどんどん進化していて、AIを欲していないようなそんな気もする。

とは言え、今後生成AIの世界もどんどん改良を積み重ね、平均の違和感を超えるようなプロダクトを生み出すかもしれないので、相変わらず新しいものが出たら触っていきたい。どこかで、どこかで私が仕事で使いたくなるレベルのものが出てくるかもしれないと、人より早く触れるから。