orangeitems’s diary

40代ITエンジニアが毎日何か書くブログ

友達なんて、いなくてもいいよ

 

私はもう離脱済みだけど、随分「友達」という言葉に翻弄されている人が多いようで書いてみる。

 

「友達100人できるかな」という呪いのフレーズが生まれたのは、1966年に作られた「一年生になったら」という童謡かららしい。1978年から「小学一年生」のCMソングとして十数年流れていたようで、テレビがもっと影響力のあったころだからまあ、刷り込みがひどいということになる。

そして、1970年代に生まれた私やその世代は色濃くその影響を受けている。ひどいのは、親が子どものことを心配する時に「この子は学校で友達ができるかしら」と本気で心配するところにもあると思う。子どもにしてみれば「友達ができない自分はおかしいのではないか」というプレッシャーを常に引き受けることになってしまい、作らなきゃ、という義務感に駆られるきっかけとなってしまう。

そして、ここまで生きてきてわかったことの一つに、友達、という概念が生きるのに無駄だということ。

大きな違和感の言語化としては「自分が相手を友達と思うこと、と同時に、相手が自分を友達と思うこと、が同時に成立しないと友達関係が成立しない」ということだ。自分が相手のことを友達と思っていたのに、その相手が実は別の場所で自分の悪口を言っていた、みたいなときに友達関係は破綻する。それぐらいわかりやすいといいが、自分が嫌いなあの人と友達が仲良さそうにしていた、という些細な状況でも友達関係は破綻しうる。

そういう嫉妬のような感情が、自分の中ですごく嫌だったし、それを他人に持たれるのも嫌だった。私は自由でありたいし、他人も自由であってほしい。むしろ友達関係なんて言う謎の契約関係に陥りたくない。私はあなたのことに親しみを持っている。それだけの一方的な関係で十分だ。仮にあなたが私に親しみを持ってくれたらうれしいけど、求めない。私がありがたいとだけ思う。それだけで十分だ。

 

だから、友達という関係は、自分が相手を裏切らないと同時に、相手が自分を裏切らないという期待まで含めてしまう異常に不確実性を持った不安定な概念だという評価しかない。まだ婚姻関係だったら1対1だし、強い縛りが前提の関係なので理に適うと思う。結婚したのに、相手が別の異性とよろしくやっていて、かつ自分をほったらかしにしたら、それは関係がなりたたない。ところが、友達って、いろいろだろう。相手がどう動いてもいい前提なのに、自分の中でいろんな感情を引き起こしてしまう。友達なのに信じられない!と。それって無茶じゃない?。

したがって、友達がいるとかいないとか、もう考えることすらやめてもいいと思っている。その代わりに、知人を増やそう。相手は自分を知っている。それだけでいい。その深さは表現しない。そして、知人と会う時には誠意を尽くす。一期一会を大切にする。知人は多い方がいい。私が相手を知っていて、相手も私を知っている。そんな浅いかもしれない関係をたくさん持つと、その合計値は大きくなっていく。知人が自分のことをどう思っているかは気にしない。でも、できるだけ良い印象でありたいので、会っている時は相手に丁寧に紳士的に対応する。

知人がたくさんいれば、何かあった時に相談できる。SNSでも会社の関係でも、何でもいい。浅く広く。それで、この人間社会は十分じゃないか、と思ってる。

別に困った時に金を貸りたいと思ってるわけでもなく、ご飯を恵んでくれとも思ってない。相手からそれを望まれても困るし。お互い独立した関係だし、自由だ。相手の自由を奪わないし、自分の自由だって奪われたくない。

 

友達なんて、いなくてもいいよ。

それより、知人を増やそうよ。

そして、一期一会を大切に、毎回相手に誠意を尽くそうよ。

それで、十分。