orangeitems’s diary

40代ITエンジニアが毎日何か書くブログ

社会性を身につけるためには

 

具体的には言わないが、学校に通わないと社会性が身につかないという記事を読んで、んなわけあるかいと率直に思った。あの学校という社会の特殊性はもうものすごい。学校は社会の縮図と言われているが、そうじゃなくて別物だ。特に何年間も同じ建物の中に押し込められて、しかも同世代で上だの下だのみたいな関係性を作っているのも、独特過ぎる。今の私の感覚で言えば、学校に何百人いようが、一人二人の知り合いがいれば十分であると思う。思うが学校はそれを許さない。友達何人できるかなの世界だ。社会の縮図ではない。

今の自分を振り返ってみると、思い切り社会性はない。この社会性というのが学校由来のものであるならば。人との接触はできるだけコントロールして、最小限にしたいと思っている。その最小限さが必要未満だと孤立し、その孤立自体は嫌なのでコントロールする。それは学校で習った生き方では決してなく、自分主体だ。もう一度(昔ながらの)学校に通えるとしても断固拒否したい。

自分がお付き合いしたいと思う人とだけ、継続的かつ最適な形で定期的にお話したい。そういうコンセプトで生きていて、「そんなことじゃ、社会から断絶されてご飯も食べれなくなるよ」と誰かに言われるような気もするが、実際はそうはなってない、全く。何を必要かは自分が決める。

仕事も同様だ。仕事も、最小限未満のコネクションしかないと、支障が出る。達成すべき仕事ができない、味方がいないではまずい。そんな状況は勘弁なので、人との出会いは大切にすることにした。大切にしたところで相手に大切にされないと終わり。そこは割り切り。その方法で困っていない。

最近、オフィスに通う価値を感じているのは、会うだけで人間関係がプラスになること。雑談の1つだけでもリアルだと重みが違う。いくら「社会性」というものが欠如しているとしても人間関係は価値なので、社会へ参加するなどではなく、自分が持つ人間関係を多彩にするために心がけている。

あの頃学校で習った、友情みたいなものって幻想だったんじゃないかと感じる。あのころは、「面白い人」「明るい人」「話題が豊富な人」みたいな概念が尊ばれていて、それがコンプレックスになっていた。

それより、相手に対して誠実であること。約束を破らないこと。攻撃性がないこと。話をちゃんと聞くこと。そんなもっと常識的な話こそ大事じゃないかと思う。それなら努力でできることだし、自分を偽ることもしなくて済む。人の価値が「面白み」ではないのであれば、誰にでも価値を見出すことができる。

特に、あの学校社会を生き抜くことがイコール「社会性」となり、それが日本社会全体のバイアスになっているのかもしれません。だからこそ、こんなに同調圧力の強い国になっているし、逆に、実はそのバイアスに同調しなくても生きていけるという話は、こうやってやると「勇気あるね〜」ということにもなるから不思議な話だ。

つまり、社会性を身につけるために、なんて言う人がいるとしたら、「その社会性って言語化できる?」と尋ねてみると良い。きっと、より同質的なことを望む集団に、自分をどう犠牲にしつつ目立たないように苦痛を感じず生きていくか、みたいな話に要約されてしまうだろう。

残念、そんな社会性は不要である。異質のまま、かつ誠実に、心の中の正しさにしたがって人々と接し、そして大事にしてくれる人とお付き合いしていくことで十分、十二分である。