orangeitems’s diary

40代ITエンジニアが毎日何か書くブログ

目の前で泣かれても、全く動じないと言う話

 

議論は勝ち負けじゃない、忌憚なく話をして、理解を深めればきっと共通の答えが出せる。・・・というのはキレイごとだと思う。議論には勝ちと負けがある。たくさんの人間が生きていれば、多種多様な意見が存在し、そして利害がぶつかって揉めることだってある。

相手が全く悪気がなくても、自分の心が傷つくような場面だってあるし、その逆だってあろう。そうやって皆、生きている。言いたいことを全部言えるわけでもなく、相手だってそうで、ある程度気を遣いながらもお互いの地雷を踏み、今日もいさかいは絶えないながらも、折り合いをつけて皆、生きている。

もし、折り合いをつけていないんだ、私は自由だ、私らしく自分らしく、と言い切る方がいれば、それは周りが気を遣っているだけである。あの人はそう言う人だから、と見切られていて、はいはいそうですか、と相槌を打たれながらも受け流されているだけかもしれない。人間関係なんてそんな美しいもんじゃない。妥協と調整が9割、である。

ある日、こういう文章を見た。

「○○さんに、こんなことを言われた。私は涙が出そうになった。おかしいではないか。」

このような、私が悲しくなったから相手が悪い、という感情に頼った議論相手の負かし方が、私は大嫌いなのである。

お願いだから、その悲しさはどんな文脈で想起され、なぜ悲しみを生む結論に至ったのか、言語化して欲しい。少なくとも相手に対して言葉にしないとわからないではないか。泣いてるから話ができない、って言うなら泣き止むのを待とう。話はその後だ。

それとも、「相手を泣かせてしまったこと」が結論となり、その発言をした人は原因を自分で探り当てて、謝罪しろと言っているのか。

いやいやいやいや、それは暴力的過ぎる。

涙が出るくらい悲しい、もしくはくやしい、強い思いがあるからこそ、相手に対して強く、言いたいことを言えばいいではないか。理にかなっていれば相手も理解するだろう。悲しいは正義じゃない。思うに、そんな感情に振り回される人が、正しく相手の言葉を理解しているかすら怪しいではないか。

感情を押し殺すのではなく、きちんとそれを感じた上で、冷静に相手に対して意見を表明できることが正しいと私は思う。私は感情を日々感じているけれど、だからと言ってすぐに相手に対する行動とは結び付けない。もし、悲しさやくやしさが長い時間消えないとしたら、なぜそう感じているかをしっかり考え、どうやって解消してやろうか頭を使う。そもそもが負けず嫌いなので、最後は勝つつもりで全てを考える。が、感情をそのまま表現するのは頂けない。自分が悲しいからって相手を責めるというのは、何とも幼稚な方法論であると思う。

私自身は自分が正しいことをしていると思っていて話したり行動したりしているので、相手が「悲しい!?なんで!?」と言われたところで、「これこれこうだからです」としか言わない。「泣いてるんだから謝罪してよ!!」と言われても、「なぜ、謝罪するべきかを、言葉のやり取りを追いながら聴かせてください」と返すだろう。

泣いたってわめいたって、理解できないものは理解できないんだ。それだけ泣くエネルギーがあるんだったら、ちゃんと話しなさいよ、って、ね。

まずは、お互いの本音、意思の共有が重要であり、その結果涙の意味、悲しませることが合理的に説明できるのであれば、もちろん、すぐにごめんなさい、と私も発することができる。ただ、それぐらい、段階を踏んで理解できるところまでいくと相手も「何で泣いてるんだっけ」となるのがほとんどなんだけれど。