orangeitems’s diary

40代ITエンジニアが毎日何か書くブログ

ダメだ、良くない、的な意見を耳に入れるのは非効率

 

大きな会社にはたくさんの人がいて、だからこそ適応できずに辞めていく人は多いと思う。合計すると大した人数になる。その人たちが外で「あの会社はダメだ、良くない」的な話をし出すと「そうだそうだ」となることがある。あの大きな会社はこんなに悪い!一色になる。

ネットの言論ってやけにそういうことが起こりやすいんじゃないか、と思い始めた。だって、ほとんど悪口ばかりじゃない?。この前までXのバズツイートの研究してたけど、「いいこと言った!」「もっと言ったれ!」みたいなものが多い。

炎上を求めるのって、人間の本能のようなものなのだろうか。最近は炎上自体が一つの娯楽みたいになってて、炎上を飛び移って生きている人が一定数いる。しばらく見てたけれど、どうも自分には合わない。それって見なければ知らなかったわけだし。関わってみたら、学びが無いということが度々あった。

それらの言説に真実味があればまだ学べるところはあるけど、冒頭のように、もしかしたらごく一部の意見かもしれない。大きな会社の大部分の人は満足して働いていて、とても自己実現していて、良い会社なのかもしれない。でもわざわざ、「良い会社です!」なんて言わないし、そんなの人気が出ない。人は炎上を見たいわけだから。

つまり、悪口、ネガティブな情報ほど、真実っぽい感じがしてしまうのが人間だということである。正しい情報が正しくても、攻撃している人の方が、抗議に情熱を持った人の方が真実っぽく思えてしまう心のメカニズム。

ここからは提案だけれど、ネットの「悪口」的な意見をできるだけミュートするか、近づかないようにする心がけはどうか。ネガティブな意見をネットで敢えて共有することで、あたかも社会を良くしようとする試みのように見えることがあるけど、これは全く逆なんじゃないか。全く正しくないことを、ただただ逆の立場に立ち反対を述べ、気炎を上げるともっともらしく見えるという現象を応用している人たちがいるだけなんじゃないか、そう思えたのだ。

まあこの主張が、「悪口の悪口」になっているようにも見えるので、特にこれ以上具体的な何かを指摘するようなことはない。

次に何に注目するべきか。「良い意見」である。前向きであること。否定から入らないこと。正しさを積み上げていること。それらはあまり刺激的に感じないかもしれないし、常識的な話かもしれない。ただ悪口が悪いところへの意見であるに比べ、良い意見の場合は良いことに対しての意見だ。もし賛同しないなら採用しなくても構わない。意識的に「良い意見」を取ることは、とても効率がいい。なぜなら、悪口にはたくさんの人が群がり正しく見えてしまう錯覚と戦わなければいけないからだ。

とても話題だ、という性質の記事は、読む前によくよく確認した方がいい。明らかに何かの悪口になっているなら中身を見ない方がいい。そうやって見ていくと、実は話題の内容のほとんどがネガティブな内容になっていることに気づく。

そこで、省略する。見ない。

これだけでかなりの時間を節約できる。もし全く目を背けてしまうと、世間の話題を知人から振られたときに困るので、タイトルだけチラ見しておいてもいい。どうせ中を見ても大したことは書かれていない、のである。

もしネットを、悪口を見て楽しむために使っている人は、かなり刺激が無くなってつまらないかもしれないけれど、それはどちらかというとエンターテイメントなんだと思う。ネットを情報収集として捉えている人は、考えてみて欲しい。