orangeitems’s diary

40代ITエンジニアが毎日何か書くブログ

集団心理の不思議なところ

 

最近の人々に思うところ。

 

知らない誰かに、あなたはこうすべきだ、と言われることをひどく嫌う。「説教くさい」という言葉に凝縮される。そう、説教されることを非常に嫌がる。

私は人に説教するのはこういうブログを書けるぐらいなのでできるのだけど、リアルな世界で説教することなんてまずない。なぜかと言うと人々が説教をする人間自体を嫌うのを知っているから。一般的にはこうだよ、とさらっと言って終わりにすることがほとんどだ。

これが、私が若い頃だから30年ほど前の日本では全く違っていた。1980年から1990年ごろのJPOPの歌詞を見ればわかるだろう。あれは高度成長からバブルまでの余波だろうね。人々は自信に満ちあふれていた。弱音を吐く人は負けだった。みんな見栄を張って生きていた。学校では先生が授業を止めて説教をしていたのを覚えている。部活でも先輩から1時間くらいの説教を受けたことがある。会社に入っても、老齢の先輩からくどくどと説教を受けることがあった。ただ、私は説教をする人のエネルギーが嫌いじゃなかったので、聞き手にまわりほうほうと話を聴くことは嫌いじゃなかったけど。

今は違う。説教によって傷つきやすい人がいることも周知されているし、説教する内容より説教をして相手に与えるヘイトの方がめんどくさいことがわかっている。最近の「ロックンロール」の低調さなんて見てもよくわかる。人から意見を押し付けられることが大嫌い、だよね。

 

でも、一方で人々は自信がない。どうあればより良い姿であるのか絶えず世間を観察している。皆スマホを見続けている。SNSで見られているのは人々のリアルではなく、どうすれば注目されるか。人々が何に関心を持っているか。支持される意見や考え方は何なのか。空気を読むための道具としてのネットを人々は手放せない。

誰かから直接こうすべきだ、という説教の形を嫌うくせに、こうしたほうがいいよという話には異常に食いつく。素晴らしい意見に賛同するのではなく、たくさんの誰かが素晴らしいと言っている状況そのものに食いつく。

あと、少し複雑なのだが、「炎上」というのもまた同じ意味を持つ。こういうことはいけない、ということについてたくさんの他人が同調しているという事実に乗っかりたい。いけないということに「私も!」と言う意見を表明することで、一体感を得られる。むしろ少しネガティブな事実の方がわかりやすい。○は素晴らしい、というより、素晴らしくない○はおかしい、というほうが人々が乗っかりやすいのである。

 

変な話、人々は説教は嫌いなのだけど、説教されることで得られるべき教訓のようなものは欲しいのだ。それを逆手に取れば説教せずとも人々を誘導することは可能だ。その理屈をうまく使うのがマーケティングの技術であり、駆使すれば色んな事ができるし、そもそも駆使されて人々が迷いに迷っているのが明らかなのだが、「世の中はきれいだ」と思ってはばからない人々がいるのも事実で、困ったものである。