orangeitems’s diary

40代ITエンジニアが毎日何か書くブログ

IT技術者なれど、日本語能力にかなり依存して生きている

 

インフラエンジニアなので、ITを動かす要素、サーバーやらネットワークやらに人一倍詳しいが、それは私が食べられている要素のうちのほんの一つだと思う。

仕事しているときでもプライベートでも、主役は日本語だ。ネットを見る時間が多いが動画サイトはまず見ない。文字ばかりを追いかけている。家族と話すのも日本語だ。言語が織りなす表現を通じて世界を見ている。

なぜ動画を見ないか。面倒だし、案外情報が抜け落ちているからだ。言葉にすると何が良いかって、心情的な意味が加わることだ。面白いやらつまらないやら、うれしいやら悲しいと言うだけで、心はわかる(気がする)。でも動画を見て、そこに映っている人がどうかはわからない。口で言えばわかるけど。でも楽しい時に楽しい、悲しい時に悲しいと言う人もまれだ。それを読み取るのが面倒だ。

特に文章で読むことは効率がいい。こうやってブログを書いていても、この書いている内容を動画で伝えられるか?。これもYouTuberがおしゃべりするような動画はあるが、頭から最後まで聴くと何十分もかかる。ところが文章だと斜め読みで数分。この文だって一生懸命書いてるけど多分数分で読まれる。だからこそ、支持して頂けるとは思うが。言葉って素晴らしい。

仕事をしていても、技術的な知識を前提としたうえで、これをお客様にどうやって伝えていくか。どんなに正確に伝えたって、専門用語を駆使してしまうと、おそらく意味が伝わらない。もっと平易な表現に変換し、文章は短めに。そして結論から先に書き、その後詳しい情報を簡潔に積み重ねていく。この日本語力が無ければ、きっと仕事をすることができないと判断されたに違いない。

でも、日本語力って、国家資格もベンダー資格もないわけで、ITエンジニアは勉強することが必要と言ったって、日本語の勉強をすることなどない。ないのに、めちゃくちゃ日本語力に依存しているのが、盲点なのではなかろうか。

また、この言葉によって交換できる情報のうち、前段で「心情」の情報が重要と書いたが、この心情の交換を他人と行うことで、相手の懐に入ることができる。私はこう思うだの、こうですかねだの、いろんな情報交換を行うことで打ち解けられる。これは、言葉があるからこそできると思う。

また、文章は後から見返すことも簡単だし、最近は検索技術も優れている。動画を重ねるより文章を重ねた方がライブラリーとしての機能も優秀だ。

日本語は素晴らしい、日本語があってよかった、なのだが、この言葉を操る能力というのが人それぞれまちまちなのが大いに気になっている。日本人である以上日本語能力は皆一定以上である、なんて言われているけど、人によって差があり過ぎないか。そしてその差を埋めることなく、技術資格を取れだの経験を積めだの言うが、基盤となる日本語能力の濃淡で結局、仕事の場でもプライベートでも、大いに結果が変わるんではないかな、なんて思う。

昔の人がよく「本を読め」と言ったけど、あれは本自体にいい事が書いてあるというより、読むことで日本語力を高めることができるということだったのかもしれない。今ならネットでも文字に没頭することができる。文字の方が言語力をつけるには好都合だから、困っている人は、あえて文字からインプットすることについて、気にするといいのかもしれない。