orangeitems’s diary

40代ITエンジニアが毎日何か書くブログ

もはやブログではないんじゃないか、という思い

 

単なる会社員だった私が、40代にブログを始め、そしてnoteにも手を出し、明らかにアウトプットする機会が増えたことについて、なかなかできない体験をしていると思っている。スタートした時期が40代だったので、これまでなかなか誰にも言えなかったような思いが富士山のように積もり重なった。だから、こんなに記事を出しても出しても尽きることなく次の記事が出てくるんだろう。

当初は、ブログというジャンルとして取り組んでいたが、最近もうこれはブログではないのではないかという気づきをしている。ブログとは何か。個人の意見、情報の共有を目的とするのが一般的な見方だが、どうも違う。読んでいる人は個人の意見だと思っているのだろうか。それともニュースだと思っているのだろうか。多分に違うと思うし、そう思って書いていない。

地上にはたくさんの人がいて、それぞれにライフステージがあり、関わり合って認識をしている。真実というのは基本的には「誰に質問しても同じ答えが返ってくると期待されること」なんだと思う。カレーがカレーなのは、誰にカレーと伝えてもほぼ同じものが出てくるからだ。人を介在しないでもカレーは存在できるのかというと、著しく怪しい。そもそも、カレーにカレーと名付けたのは自分ではないはずだ。誰かに教えてもらった知識のはずだ。

そうやって生きていると、真実は、声が大きい人に引っ張られる。有名な人がそう言うから。メディアがそう言うから。みんなそう言うから。そう考えると真実の頼りないこと。カレーの「カレーそのもの」と、「みんなの言うカレー」には、誤差がある。この誤差があるからこそ、人は真実を知りたがる。

よく、メディアで、対立意見を持っている人たちが集まってディスカッションをするが、それは真実をどちらの意見にするかを決める取り組みである。著名な人を読んで話をさせる。真実とはなにかを国民がじっと凝視している。

最近はSNSで「トレンド」という便利な機能があり、人々が関心をもっている事柄がわかるようになっている。関心の先には新しい真実があり、それを知らないと遅れている、ということにもなりそうだ。

そうやって人々は生きるが、きっと、情報が多すぎてそれらを統合したらどう捉えればいいか、処理するのが大変な時代になっていると思う。情報が多すぎて、箇条書きのボリュームを頭に入れつつつなぎ合わせ、一つの概念にするには負担が大きすぎるじゃないか。

昔は、いい学校、いい会社、家庭を作って子どもに恵まれ、みたいなテンプレ的な人生絵巻が当たり前と信じられていたが、最近はそうでもない。これは人々が「人生ってこういうのがいいよね」という情報が錯綜しているためだ。カレーを頼んでもシチューやらカレーうどんやらハヤシライスやら、色々錯綜している。

それらを多様性と読んでいるけど、真実とはなにか、という話からすると、人間の認知は大変不安定になってしまうのではないか。

その状況で、40代の私が、これまでの社会変化を踏まえて、情報を把握した上で情報処理能力を活かし、言語化をすることが、真実を知る上での何らかの手助けになっているような気がしている。それをブログ、と言われるともうブログではないのではないか。

私は生きているわけだし、生きているから社会の情報の変化の機微も受信する。しかも敏感なので、すぐそれらの情報をこうやって記事に反映できる。そして、素直じゃない正確なのであらゆる情報を鵜呑みにできない。そういうバランスで記事を書いていることそのものに価値が生まれているんじゃないかな。

今日は、カレーの話をしたかったわけじゃないが、とりあえずカレーが食べたくなった。