orangeitems’s diary

40代ITエンジニアが毎日何か書くブログ

ほとんどの人は議論が下手であるという前提で生きる

 

社会を観察していて・・というのは私のライフワークなのでいろんなことがわかるのだけど、今回、理解したのはほとんどの人々は議論が下手であると言うこと。Twitterにしろはてなブックマークにしろ、ヤフコメにしろいろいろと短文でコメントができる機能はインターネットに備わっている。しかし、それらできちんと議論が成立したことって実はない。ほとんどが言いっぱなしである。それに「いいね」がどれぐらいついたかで支持されたかどうかという仕組みだが、なぜ「いいね」なのかは理由が示されない。

なぜいいのかを定義しないまま、いいを決めるのって何に似てるのかなって思ったけど、選挙だ。なぜ選挙をするといつも決まったような結果が出るのかいつもさっぱりわからない。でも結果は出る。一票という「いいね」をもらったほうが勝ちというのが、おそらく民主的である。民主的というのは、いつも正しい答えを決められる。そういう刷り込みを教育から含めて我々は受けている。生徒会長を決めることにしたって、生徒が体育館に集められて意思表示させられるからね。

でも、これって議論でもなんでもない。投票を委ねられた人々はちゃんと議論の内容を理解しているか。うまいこと言ったやつ、つまり大喜利的な要素で人気が決定されているのではないか。そのとき、議論の内容より、ショートセンテンスの明瞭さとか、ロジックのシンプルさ、そして概念の目新しさのようなものが勝つのではないか。

論破、なんて言葉があるけど、そもそも議論というのは、お互い意見を出し合った上で内容を吟味しつつ、第三者が解釈しても納得できる客観的な結論を出す行為である。ところが、Aという主張とBという主張を対峙させて、Aであるべき、Bであるべきみたいなディベートの方が議論と思われがちである。最後にAかBかを会場のみんなで決める、とかってラップバトルかよ、と。

そして大事なのは、投票している人は議論に参加していないということ。いいねだけではわけわからんので、コメント機能でも付けたら今のインターネットの言論ととてもそっくりだ。言って逃げである。最悪は、アカウントを消して逃げればいいだけだ。それでは議論にならない。コミュニケーションしていない。あれだ。ヤジである。選手はヤジに反論する機会はないのである。

そう、つまり人々は、思いのほか議論が下手だ。ワークショップなどでグループワークをして、人々が意見を出し合いグループの意見を集約する、なんてことをよく体験するが、結構みんな大人しいし、平凡な意見しか出さない。それは対立を避けるため、空気を読むからだ。所詮、人々は議論をすることに慣れていないし、コミュニケーションすらしたくない。日々の生活を思い出してほしいが、真の意味でコミュニケーションしているのは数人であるはずだ。ほかの人とは、社会的形式の中で事務的な受け答えしかしていないはずだ。

インターネット、SNSでみんなつながり、そして知恵が交流しあいよりよい世界が作られる、なんていうのがもう、古い古い世界観だと思う。そもそも古い時代には2ちゃんねるが、その幻想を打ち砕いたが次にSNSが出てきて、「クローズドコミュニティーなら言論の治安も守られ、そして議論も深まるのでは?」という仮説が生まれたが、いい感じにクローズドにならず、結局は、選挙制度のような、わけのわからない多数決システムと、ヤジの自由だけが残った、と解釈している。

私もこうやって趣味でブログを続けているけれど、結局はコミュニケーションをしているのではなく、耽々と自分の中のロジックを練り上げているだけである。議論はしていない。そしてヤジも聞いていないし望まない。ほとんどの人は議論に慣れていないし、そして下手なのである。議論が上手な人が、現在のインターネットに絶望するのもよくわかる。