orangeitems’s diary

40代ITエンジニアが毎日何か書くブログ

他人は、全く違うものを見て世の中を理解している

 

今日、某県の地方都市に車で行ってきた。4時間くらいの滞在立ったけれど、初めて行った場所で中々新鮮だった。日帰りだけれど旅とはいいものだ。自分の世界を拡張してくれる。

駅前をうろっとしたけれど、そこに「○○名物おまんじゅう」みたいなものを売っている売店があった。昭和初期から売っているそうで、地元では相当有名な土産ものなようだ。

その売店を外から見て思ったのは、もしかしたらそこで働いている人、特に経営に近い人は、その売店で人生の多くの部分を過ごすことになること。

私の性格でそれは耐えられるかな‥と思ったけど、私はおまんじゅう屋と関係ないし、どんな選択をしようがそこにはいないだろうし、仮説は成り立たない。ただ、店の中にはスタッフがいて、店構えは古く、誰かがそこにいるのは間違いなかった。

きっと、どうすればもっと売れるかとか、得意先を見つけたいとか、美味しくするための工夫、原価率を下げられないか。店の雰囲気、ポスターの貼り方や広告、地方など遠方への販売ルートの確立をにらんだECサイトの構築、いろんな要素があって昭和、平成、令和と潜り抜けてきたのだろう。

でも、人生のほとんどがその環境の中にあるとして、きっと「世界はこうである」という認知は大きく私とは違うんだろうなと言うことだけは言える。

同じ日本に住んでいるにもかかわらず、世界の見え方が物理的に全く違うという状況の中、きっと会話をしたら大いにズレまくる自信がある。価値観の違い、という言葉で表せるのかはわからないが、いちいち思っていることが疎通できなくて面白いことになるんじゃないかな、と思う。

時に人は、この価値観の大きなズレと向かい合い、情報交換し、互いに歩み寄って友情を結ぶことができると思っている。ただし可能か不可能かはやってみないとわからない。戦争を長い間続けてまでも相手を滅ぼそうとするくらいの、憎悪を生む場合もある。

都会にはたくさんの人がいて、それぞれ出自も違えば職業も違い立場も違う。みんな違うのに、みんなで仲良く元気良く、なんて思想こそ矛盾しまくっている。どだい無理なことをなぜ皆目標化し突き進んでしまうのだろう。どうせ仲良くするなんて無理、当たり障りのない付き合いをして、事故にならないように話を合わせよう、ぐらいでいればほとんどのトラブルは避けられるのに。

コミュニケーションお化けと言われる、どんな価値観の人とも仲良くなれてしまう人を除けば、無理なのである。一番危ないのは自分がコミュニケーションお化けと誤解してしまい、実はド天然で多くの人と関わろうとし、無自覚で他人を傷つけまわる人。自分自身は全く加害者意識はなく、でも多くの人と天真爛漫に言葉をぶつけ、相手は傷つくが自分自身が加害者意識がないので気づかない。「そんなつもりはなかったのに」って、いざトラブルが起きると涙ぐむ。被害者モードに即転換。そんなのおかしいよね。

誰かと分かり合えるなんて、生きていて一人でも二人でもいればそれは奇跡なのだ。もし、わかりあえたなら大切にしよう。そして大多数に期待をせず、わかりあえないことを前提に、誠実にお付き合いする。一生に一度あるかどうかの大事な出会いは、その中に希少に隠れている。そういう人生観を私は持っている。