orangeitems’s diary

40代ITエンジニアが毎日何か書くブログ

論理的に説明する、の一歩手前の能力

 

論理的な資料を作成したり、その説明を論理的に行うことを、仕事だと思っている人はたくさんいる。論理的であるために、資料作成方法や、作文の表現方法を磨こうと思う人は多い。そういった分野の教材も巷にはあふれている。

論理的でありたい。その欲求に皆が注目しているのはわかるが、私は大事なポイントが抜け落ちていると思っている。論理的であることの手前で、大いに差がつきやすい能力がある。この能力の方が、論理的であることよりも大事じゃないか。

その能力とは「曖昧で、不明瞭で、バラバラなものを把握する能力」だ。

対象は雑然としており、そこに論理はない・・ように見える。しかし、把握し把握し、把握していくと、何らかの法則が成り立つ気配がある。

見ただけで聴いただけでは法則の存在に気が付けないので、じっと思慮する。いいアイデアが出てくるまでは、観察するだけだ。いきなり手を動かすのではなく、曖昧なまま把握する。だいたいこんなもんだろうか、と自身の感覚にある違和感が消えるまで把握を続ける。

他人にはスロースタートに見えるかもしれないが、ここで頭はきっと、たくさんの計算をしている。情報をあらゆる角度から入手し、対象の解像度を上げていく。まだここには論理はないが、ちらっと論理が見える瞬間が出てくる。

見えたかもしれない、もしかしたら錯覚かもしれない論理を見出したら、軽く、その論理が汎用的かどうかチェックする。本当っぽいウソかもしれず。ウソっぽい本当かもしれず。私は、物事を知るときに最も楽しいのはこのプロセスだ。

雑然とした状態のものに、いきなり線を引くわけでもなく、柔らかくして好き勝手に形を変えるわけでもなく、自然な素材のまま、論理を探していくこの作業。

もともと論理的なものを、そのまま論理的に話すことというのは、仕事では「定型的な作業」と言われる。決まり決まったことを、決まり決まったようにこなすこと。昨今では、コンピューターに論理を与えると、確実にその通りに動くので、どんどん人間はその類の仕事を奪われている。

一方で、曖昧なものに対する対応、という意味では人間の得意分野である。人間の仕事は、この、論理的でないことを、どう論理に変換するかということになる、と言われている。

この分野に、最近は生成AIが張り込んできて、あいまいから論理を見出せる「かもしれない」と言われている。ChatGPTが言うことをどれだけの人が信じるのかは別として、人間が問い合わせする言葉はいつも曖昧だ。それを、論理的かのように自動的に文章を生成してくれるのだから、人間の領域を侵食し始めたのかもしれない。

ただ、人間の立場から言わせてもらうと、少なくとも今のAIは、質問文と答えの関係を学んだ結果を出力しているだけである。分析したのではなく、「分析した人間が出した結果を学んだ結果」なのである。まだまだAIより人間に分がある。

オフィスで最近仕事をしていて、相変わらず忙しい状況にはあるのだが、手を止めて考え事をする時間が増えた。他人には、ぼーっとしているように見えるのかもしれないけど、きっと私は曖昧なことを把握しようとしている。長考の末、突然手を動かし始めて論理的な資料を作るのだけど、作り始めるまでの時間、遊んでいたわけじゃないよ。把握するために頭がいろんな計算をしていたようだ。

私の仕事を他人が見ると、私がさぞ、論理的に思考する人間だと思われるかもしれないが、実はほとんどの時間、非論理的な把握の時間のほうが長い。結果が論理的なだけであり、結構、直感・疑念、みたいな感覚を大事にしている。それらが、曖昧なものにある裏側の論理を気づかせてくれることが多いからだ。論理が出てきたら、このブログのように筋道を追うだけでいい。難しいのはむしろ、その前段階、論理を探すほうだ。

論理が出てくるのは、もう全て決着が着いたあとだから、論理に注目するのは段階が遅すぎで、もっと前の曖昧な状態の思考法のような概念がもっと注目されるべきだと思う。