orangeitems’s diary

40代ITエンジニアが毎日何か書くブログ

基礎を学ばず上手になる方法はない

 

子どもの習い事について書いておこう。

特に芸術系の習い事で当てはまること。都会には有名な先生がいて、その先生に習うと全国大会に行けたりする。さぞ指導が上手な先生なんだと皆思っていると思う。しかし、例え全国大会に進めたとしても、その子が将来、その専門に進むかと言えばたいていはそうではない。結構、小学生で辞めてしまうことが多い。親も、人格形成の手段としての習い事、と思っている節があり、全国大会出場の勲章を持って有名私立中学への進学の武器に使っていることが散見される。

子どもを全国大会に進出させることができれば、親も大喜びである。先生の株も上がるので一挙両得。一方で、芸術家として子どもを育てるという大局観があるかと言えば、私は疑問に思うところが多い。

というのも、小学生は、とても先生の模写をすることに異常な集中力を発揮しやすいからだ。芸事は、たくさんの時間を使って基本を身に付けた後に、徐々に難易度の難しいことを、それまで得た知識を応用して再現させることが重要だ。しかし、基礎を取っ払って、いきなり難しい演技を、事細かに先生が指導する。手足や指、体の使い方を含めてきっちりみっちり管理する。いわばマイクロマネジメントである。

有名な先生は子どもだけではなく、親をも巻き込む。なぜかと言うと、レッスンの時間だけではとても伝えきれないからだ。親に伝え、親が子どもを家庭の中で指導できるようにするのだ。親が熱心にノートに先生が言うことを書き込み、親が先生に質問したりもする。親の目が忘れられない。子どもに活躍してもらいたい親の本能をくすぐれるのも先生の技量となる。

でも、忘れてはいけないのは、親すら素人であるということ。素人が素人に、物まね指導をするので、全国大会の課題に対して、もう半年も、1年も同じことをやり続ける。その曲については、全国レベルになる。そうなのだけれど、結局は全国大会向けの対策しかやっておらず、基礎はさっぱり身に付いていない、ということが起こりえる。習い事そのものに親が巻き込まれる時は要注意とも言える。

大会というのは、習い続けるためのモチベーションとしては機能していると思うが、その結果に(親も含めて)一喜一憂する人が多すぎるデメリットもある。あんなもので、基礎が身に付いているかどうかはわからない。物まねすることができやすい課題が多いというのもあり、弊害の多い文化だとは思っている。

たまに、突然変異的に、物まねしつつも基礎、本質を身に付けることを主体的にできる子どももいて、大人になっても活躍する方もいらっしゃる。全てが大会を否定するものじゃないが、多くの人に取って、目的が大いにずれていて、それでむしろ、全国大会に入賞してしまった子どもが「私は才能があるのかも」と思い込んでしまうことの方が怖い。

基礎を身に付けるには、地道な努力と鍛錬が必要だからだ。それを避け、物まねの連続を大人になるまで続けていたら、きっと行き詰まる。

具体的に言えば、レッスンされないで、自分の作品を作ることができないなるから、だ。芸事は、自分の主体的な表現が大人になるにつ入れ求められていくようになるので、それを先生がマイクロマネジメントすることは、特に難易度が高くなると難しくなる。なぜかというと、基礎が必要になるからである。

おそらく、日本と言う土壌は、試験をして選抜し、賞を与えるのが好きだ。だから、点を取るためには手段を選ばない、という暗黙の了解があって、本来の実力ではなく試験の点数を上げる方法ばかりを追求してしまっている。

芸事は、試験ではないのである。

本当に子どもの身になる習い事をさせるなら、基礎を身に付けることを大事にすることだ。目先の大会や試験の点数を目的にしてはいけない。そんなことをやっても、将来、子どもの何も助けない。