アップデートすべきは、ごんぎつねと教師の常識のほうじゃないかという話

 

「ごんぎつね」ってご存じですか?

 

bunshun.jp

 兵十が葬儀の準備をするシーンに「大きななべのなかで、なにかがぐずぐずにえていました」という一文があるのですが、教師が「鍋で何を煮ているのか」と生徒たちに尋ねたんです。すると各グループで話し合った子供たちが、「死んだお母さんを鍋に入れて消毒している」「死体を煮て溶かしている」と言いだしたんです。ふざけているのかと思いきや、大真面目に複数名の子がそう発言している。もちろんこれは単に、参列者にふるまう食べ物を用意している描写です。

 

こちらの話はもう炎上した後で周回遅れだとは思うんですが、私も思ったことを書いておきます。今、お葬式自体を子どもが体験する機会が昔より全然減ってるんですね。これは核家族化、および都市化が大いに進んだからだと思います。過去は親族が同じ地域に集まる生活をしていたものですから、お葬式に参加する機会が物理的に多かったわけです。

ところが、今や親と子だけで生活する世帯が大変多く、かつ子どもは祖父・祖母がまだまだ若くて元気だというケースも大変多いわけです。祖父や祖母の上・・となると、出席しないのもごく自然です。

お葬式を見たこともないのに、国語力だけで想像せいというのが非常に不親切だと思います。それを、国語力の問題にすりかえるのはいかがなものかな、と思います。

 

もともと、ごんぎつね、の話の由来を見ると面白いことがわかります。

 

ja.wikipedia.org

 

この物語の舞台である愛知県半田市は南吉の出生地である。この物語を南吉が執筆したのは1930年、わずか17歳の時であった。

(中略)

『ごん狐』は、元猟師の口伝として存在したオリジナルの『権狐』、新美南吉が口伝を物語にまとめた草稿の『権狐』および、南吉の『権狐』を鈴木三重吉が子供用として編集した『ごん狐』が存在する。国語の教材や絵本で一般に親しまれているのは『ごん狐』である。

(中略)

鈴木三重吉が行った編集は、全国的な物語の普及を目的として、贖罪の位置づけを強調するとともに、語り手の存在感を薄めた他、場面の単純化、表現の一般化、地域性の排除など三十数箇所にのぼり、近代の童話として大胆に手を加えられた結果、普遍的な共感をもたらす作品として完成した。

 

つまり、原作は、全国で使われることを前提として、大幅に書き換えられたということです。そのままだと、全国の学生に意味が伝わらない。意味が伝わらない教材は教えるときに困るということで、今の形になっています。

 

1980年あたりのアップデートのまま、40年後の今、そのままこの話を使っているということですよね。

そりゃ、45歳の石井氏はイメージが浮かぶとは思いますが、今の子どもたちに果たして、このごんぎつねは、そのまま伝わるのでしょうか。

アップデートすべきは、40代の我々の価値観や、ごんぎつねそのものなのかもしれません。

当たり前だと思っていることすらどんどん変わっている。しかもこのコロナ禍で数年先に進んだ感があります。教科書に使い続けるのならば再度修正が加えられるか、その童話が作られたときの社会事情を前提として教えるべきだと思うのですがいかがでしょうか。

何もかも国語力が弱い、のせいにしていいものか。私の時代にも、同じクラスに100点を取る人もいれば30点の人もいました。当時はテレビの見過ぎ、マンガの見過ぎ、ファミコンのやり過ぎ、の3点セットがありました。

この構造はそのころと全く変わっておらず、YouTubeの見過ぎ、Tiktokの見過ぎ、スイッチのやり過ぎといったところでしょうか。

国語は大事だと思います。どうやって国語力を子どもたちに身に着けさせるかは、これだけは大昔から変わっていない、教育の課題なのかもしれません。

だからこそ、国語はしっかり文化的背景まで配慮して、子どもに伝えなければいけないと思います。アップデートすべきは、教える側にもあるのではないでしょうか。