年を取れば取るほど、過去の失敗は積み重なる。
失敗なんて誰も経験したくないんだけど、ある程度の確立で遭遇する。
しかも若い時の方が、自分の限界や適性をわからないものだから、幼いからこその万能感でいろんなことに挑戦し、当たり前のように失敗する。
失敗すると痛いものだ。心が。
心は面白いもので、痛かったことを忘れることはない。痛み自体は減衰するが、そこに痛みがあったことはおぼえている。
失敗のショックが大きいと、未来になっても思い出す。あの時どうすればよかったのか。今の自分だったらどうするか。失敗しなかったらどうだったのか。
けれど、そんなこと、考えるだけ無駄だと思っている。
今とその時では、世界の価値観も変わっている。人々の考え方も大きく違う。10年前の人が今の人たちの価値観、サスティナビリティーやらジェンダーフリーやらの発言を聴くとびっくりすると思う。
今の経験を持って過去にさかのぼれはしない。もう、失敗は失敗として横たわっている。振り返ってもしょうがない。
そもそもその失敗、合理的な理屈だったのかもわからない。自分が思っていた失敗は、実はとても不条理な理由で引き起こされていたかもしれない。失敗は自分の責任かと思ったら実体はそうではなく、誰かが後ろで糸を引いて画策したことかもしれない。自分の知らない場所で、思ってもみないことがあって、その結果引き起こされた末端の部分に自分がいただけかもしれない。
真実は誰もわからない。過去を追求するくらいなら、未来を追求した方がいい。
人は失敗から学ぶと言うが、失敗した瞬間に学べることがほとんどである。
時間がたっても、くよくよするようなことではないと思う。時間軸が後になればなるほど、反省の意味もなくなるのだから。
例えば、平安時代の失敗、令和の今に活かせるか?。歴史的価値はあるが、人生に活かす出来事ではもはやないだろう。
失敗を反省するにしても、その直後に、集中的に、そして短時間に終わらせ、後は前を向いて生きるのが吉である。それ以上時間をかけると、心は消耗するだけでいいことは何一つない。
生きていれば失敗は避けられないが、失敗したからと言っても昨日のことである。
また今日と言う日はやってくるし、その時間の中で過去を振り返り考えることより、将来のことに頭を振り向けたい。今何をなすべきか、の中で、自然と心に過去の失敗がよぎるなら、十分失敗から学べているのである。
だからこそ、年を重ねても元気に生きられる。失敗の数はたくさん、人に言えないものもある。それがどうした、過去のこと。未来は生きている限り誰にでも提示される。前を向いて生きるのだ。