orangeitems’s diary

40代ITエンジニアが毎日何か書くブログ

表層的なAIにだまされている気がするという話

 

ChatGPTがすごく、社会から過大評価を受けているような気がしてならない。

ということをうまく言語化している記事を見つけた。

 

www.businessinsider.jp

しかし、筆者の感想は実は真逆だ。

むしろ、ChatGPTの成果によって「会話AIが人間を超える存在になれないことは、ますます色濃くなった」と感じている。

2020年ごろにParlAIを知った時は、筆者にも「この先、会話AIはどう進化していくのか」というワクワク感があった。ParlAIは短い返答しかしなかったから、長文で会話する未来に想像力を広げる余地があったのだ。

ChatGPTは、ある意味でParlAIの「この先」を全部やった。

その結果、ChatGPTのアプローチでは極めてつまらない人間、つまり“それっぽいことを、それっぽく話せるだけの人間”と、同じような振る舞いしかできないのだとわかった。

 

Google検索の時代からわかっていたことだが、検索結果というのは人間の思索の結果を拾うシステムであって、それそのものが思索するわけではない。

他人の思索のパクリやつなぎ合わせを、あたかも自分の意見かのように言う仕組みであり、これをAIと呼ぶのはかなり拡大解釈じゃないかな、と思っていたが、実際の仕組みすらそうなっているんだな、というのがわかる。

この記事にもはっきりと書かれているが、人格は様々なのに、ChatGPTが1つだけというのがそもそも話がおかしい。Google検索を置き換える存在としてのChatGPTは、とても堅苦しくて法制度を遵守し、バイアスのない、模範的なヤツになるだろうが、そんな人格との会話はきっとつまらない。思索とは自由であるべきで、たくさんの事象を組み合わせて新しい想像を作る。それを世の中に出すかどうかがリスクマネジメントであり教育であり、あまりにも多数の人々がそれができていないので、数々の動画が今炎上しているらしいが、人間らしいといえば人間らしい。

ただ、自分が誰かと会話する時、結構思索の結果というよりはネットの情報をそのまま丸パクリして人に話すことはよくある。そういうことをやっているときに、あ、これChatGPT的だな、と感じる。よく感じる。対人コミュニケーションの9割は丸パクリが本質で、だからこそみんな、あんなにスマホを起きている間眺めていないと気がすまないんだろうなと思う。自分の人格拡張を、ネットを通じて行っているのである。その自動化こそがChatGPTなんだな、と。

だから、実は最後に残されたのが、自分の頭で考えることということになる。丸パクリはいい。その後が大事だ。集まった情報から何を感じ、何を導き、そしてどう行動や言動に活かすか。何を新しくアウトプットするか。それをやらないのであれば、もはや機械も人間も同じ地面に立ったという理解で良い。

ここ最近もデジタル化により、事務員の仕事がかなり減った。決まり決まった手順はコンピューターの得意とするところだ。次は、単に情報を集め要約する部分が、この表層的なAIによって実現される。だからこそ失われる職業もある。それを決める鍵が、仕事において思索するかどうか、にかかっている。

今の仕事、ちゃんと思索が関わっているだろうか。人間の強みがいよいよ明確になってくる。こうやって、考えて文章を書くこと。もう5年くらい続けているが、もしかしたらすごく良い活動となっているのかもしれない。