最近、色々とかみ合ってきていて、うまくいってるな、と思えば思うほど、なんだか不安になってくる。ありもしない問題を想像し、そして対策を考え実行しようかと思うが、そもそもありもしない。つまり、「余計な事をする」ということの前兆なのではないか、と思う。
ほぼほぼ完ぺきなのだから、そこでも残る問題を挙げて解決しようとするのは、完璧主義というか、もはや完璧が好きだからという趣味や性癖のような部類だが、それを本能のまま他人に追求しようとすると、同僚に窮屈な思いをさせてしまう。ここまでやっても、まだ満足しないのか、と。
自分の中にある完璧主義のようなものを、自分に対して向けるのは個人の自由の範疇だと思う。この完璧さを、他人の枠まで広げたときに、全く何もなく耕されていない状態だと「こんなことまで気が付くのか」とポジティブに評価されることが多い。そして完成に近づき安定し出したころに、その特徴が逆転し出す。ホコリ一つ見つけ出しただけで大騒ぎしたくなる衝動。これが悪影響となる場合がある。
この衝動をどうコントロールするかだ。
13年前に、こんな本がベストセラーになっている。
あらゆることに気が付く注意力の対抗に、鈍感でいられる力、のようなものがあるという主張だ。度々、私もこの必要性を感じることがあったし、そろそろ自分の中に実装したいと考える。意識していないと、敏感力、が発揮されてしまう。
何か他人に問題があって、それに自分が気が付くとしても、他人が自分自身で解決しなければいけない問題なのかもしれない。もしくは、自分が関与しないことを望まれていて、だからこそ自分に報告していないのかもしれない。この辺りの可能性を考えれば考えるほど不安になってくる。あえて見逃しているそれは、本当に見逃すべきなのか。全てに対してアンテナを張り全てに最速の行動をして、称賛され、評価されるタイプの人はここがこらえどころとなる。何もしない、ことがベストの場合があるということだ。
いろいろあって、相談されたら全力で応えてあげたらいいが、まだ相談されていない段階で「実は問題抱えてない?」と聴いてまわることが、藪蛇(やぶへび)になる。あいつ、鬱陶しいとなる。
つまりこの鈍感力。敏感な人ほど、「鈍感たろうとする力」を自分の中に作りだし発揮しなければいけない、ということだ。鈍感である人のことではない。本当に鈍感だと、必要なことに気が付けない。そうじゃなく、敏感過ぎる人が持つべき力のことを指す。鈍感であっていいとこの本が多数の人に誤解させるとしたら、それは間違いだ。
本能に従うなら、「本当は問題を抱えているよね!どうしたらいいか一緒に考えようよ!」と周辺に叫び散らかしたい衝動を抑えながら、今日も平穏な振りをして、せめて自分の未熟さを呪い、改めることを続けよう。人を助けるのは、望まれてからで遅くない。