orangeitems’s diary

40代ITエンジニアが毎日何か書くブログ

人間は誰でも愚かな部分がある、という前提で設計しないといろいろ危ない

 

人は立派に振る舞えば立派になれる。

そんなメソッドがかなり世の中に広がっているため、偉い人は世の中に増殖していると思う。インフルエンサーやら会社社長やら有名芸能人やら、CEOやらCTOやら、メディアに出る人々は一概に、成熟している素晴らしい大人に見える。

ところが、ゴシップ記事は後を絶たない。あの人が実は・・!、みたいな話がいつも話題になっているしその度ごとに、「実はあの人って○○なんだってね」と皆が失望する。過度に信頼したり失望したりと世間は忙しい。

人間って、きっと心の中に、幼い欲望のままの部分を持つ。他人を省みず自分が満足したい、人に迷惑をかけても構わず満足したい。その部分と、社会と調和を持ってより文化的で高い人格を形成したいと思う側面もある。人間の中には、相対する要素が一緒に含まれている。

あまりにも露出が高い人は、きっと外の顔が強すぎて、自分が思っていることややりたいことが段々わからなくなっていくだろう。自分のキャラクターが社会を闊歩し、まるで別人のようなイメージが作られていく。外を歩くと、皆は自分を知っている。ところが私は皆を知らない。なのに、皆が知っている自分はメディアに作られたキャラクターであって自分自身ではない。そのギャップに苦しむことは以前は有名税、と言われたものだ。

ほとんどの人は、それには当てはまらず、限られた周辺の人と調和していけばいいからまだ難易度は低いが、それでも気を付けなければいけないと思う。誰だって、自分の中に愚かな部分を持っている。ところが、社会的な地位を得てしまった人は特に危険で、自分自身が社会的に評価されたものだから、その愚かな部分も消え去った、と勘違いする人がいる。

そりゃ、成長して、課長やら部長やらになったのであるから、誤解するシチュエーションではある。周りの前でも「できる人」として振る舞う。そのうちにそれが自分自身の全てと錯覚するようになる。

ところがやっぱり、これは錯覚であり真実ではない。愚かな自分はどこまでも消えない。だから、特定の状況がかみ合ってしまうと、大きな失敗や悪いことをする、ということも、どんな人でも、ゼロではない。

どんなに部下が信頼できる人物でも、同僚でも上司でも部長でも社長でも、みんなみんな人間だ。だから外面上の人格がとても優れていると思っていても、過信は禁物だ。それは自分自身に対しても。

できることは、まず自分に関しては、そういった幼稚な、自身の品格を汚すような行動をあえて自分が採らないように、周りの環境を普段から整えておこう。お金にルーズと思うなら、大きなお金を動かすことを何らかの手段でとても難しくしておかなければいけない。異性関係にルーズなら、そうならないように周りの人間関係に工夫を行うべきだ。お酒に酔うと失敗する人は、あまりお酒を飲まないような仕掛けをするべきだ。

人間に完璧はない、ということは不十分な点が誰しもあるということ。脆弱性があるということだ。そしていつでも脆弱性が攻撃される状況が起こりえるので、そうなっても問題が起こりにくいように普段から気を付け、対策を施しておくべきだ。他人を過信してもいけないし、自分自身も過信してはいけない。

これはもう、日々の設計の問題だ。自分の弱みを把握するとともに、他人も弱みを持つことを前提とすること。自分は大丈夫、とても成長した優れた人格だ、なんて自分への評価が過度に高い人ほど、落とし穴に落ちていくのだ。

落とし穴に気を付けるとともに、落とし穴に近づかないことだ。