orangeitems’s diary

40代ITエンジニアが毎日何か書くブログ

特別扱いするマネジメントは成長力を汚す

 

日本の人事評価の特徴は、著しく飛びぬけた評価をしない代わりに、評価が高くない人もそこそこもらえるようになっていることだと思う。レンジはそこまで広くない。年収一億円と年収二百万の人が一緒に働く職場なんて、中にはあるかもしれないけれどごくごく少ないと思う。

一つの会社における人件費の総額は、評価にどんなに差をつけたって同じだ。みんな評価を良くしたら、総額が上がってしまい、そして売上や利益の規模を超えるような設定にしたら、毎年の慢性的な赤字が待っている。

そう考えると、まずは売上と粗利の確保が重要となる。その粗利の中で適切な人件費を確保し、そしていかに配布するかということが人事評価のポイントになる。

売上と粗利が年々向上している状況なら、人件費を年々確保できるので、全体の総額は上げていける。ただし、社員数が増えれば、平均年収は上がらない。

だから、結果的に平均年収が高い会社は人件費の総額を確保しつつ、割り振る社員の数も適切であるということ。もし十兆円の利益があっても、社員が一億円いたら十万円しか配れない。おっと、どこぞの国の話みたいだ。

 

もっと、能力のある社員に極めて高い報酬を、という論調があるようだがこれはよろしくないと思う。人件費の総額を変えずに、つまり会社の平均給与を上げずに、特定の社員だけ給料を上げると、結果としてそれ以外の社員の平均給与は下がることになる。

もしくは、特定の社員を限りなく上げると、特定の社員を限りなく下げないといけない。

これを日本全体でやったとすると、すごく給与の高い人が少数現れ、大多数の人の給与が下がると言う現象となる。

日本は中間層が豊かになることで、たくさんの人の購買力が増え、モノが大量に売れる時代になった歴史がある。この中間層を没落させるような考えをしたら、どんなに優秀な人が現れても、国全体で言えばどんどん消費の力が衰えるので、結果を出せなくなるという仕組みである。

 

必要なのは、現状の評価軸のまま、平均給与を上げていくことだ。全体の底上げが行われれば商売がうまく行きやすくなる。そして、能力が高い人も一緒に給与は上がる。

能力主義のビジョンを聴くとバラ色のようだがそうではない。能力のある人の周りにいる、中間層も満足して働き、生活できるようにしないと、誰も協力しなくなる。能力のあるなしに関わらず、たくさんの関係者が協力し合うから事業は伸びる。一緒のゴールを目指す共同体であれば、それが成功すれば全員が得をするような仕掛けでないと、協力者はばかばかしくなる。

そもそも、能力なんて正しく測るのが難しい概念の一つだ。それを過剰に評価して、すごくいい人を少数作って、多数の人のモチベーションや、購買力、生活力を下げることが世の中に流行るのがいいとは全く思えない。

生産性を上げていく努力を、人事評価の改悪ですり替えてはいけないと思う。企業によくある、事業を通じて社会だけではなく、社員全員も幸せにするというビジョンは、あながち間違っていない。