orangeitems’s diary

40代ITエンジニアが毎日何か書くブログ

知り過ぎない努力について

 

社会はとても複雑だ。

私とあなた、あなたと彼、彼と彼女、いろんな関係性で連なりあっていて、そしてほとんどの人がほとんどの人のことを知らないのに、社会は毎日まわっている。

学校から教えられたことやメディアが流しているニュースは、ほとんどの人が共通して知っていることとされ、はじめて知らない他人と会話したときも何となく会話することができる。共通知のようなものは明らかに存在する。

その共通知さえ、本当に正しいことかどうかはわからない。国が違えば正しいものも誤りだったりする、またはその逆ということもある。あくまでも国や地域単位であいまいに合意した情報をベースにしていて、外国に行ったらその国の共通知に合わせなければいけない。

ワールドカップでカタールに世界中の人がお邪魔して、カタールの文化や風習に異議を唱えている外国人もいるらしいが、私はナンセンスだと思う。サッカーだけに集中して大会が終われば黙って自国に帰った方がいい。

会社だって、会社ごとにいろんなローカルルールがある。他の会社の方と話すのは楽しい。自社ではありえないことが他社では起こっていたり、自社がすごくユニークだったりすることも気づかされたり、正しさなんて場所でいくらでも変わるんだと気づかされる。

身近な人だって、話しこんだら見解の相違は現れる。

自分の家だって、普段は見もしないタンスの裏を見ると、ホコリにまみれて昔落っことした失くしものがあったりもする。

面白いくらいに、人間は社会のほとんどの部分が見えていないのに、あたかもスマホでネットにつながっているだけで世界を知ることができているような錯覚に陥る。

結局は「皆が共通知としたら世界が落ち着く範囲の情報」がセレクトされカスタマイズされ置いてあるだけである。本当の本当に、本当の情報が全部人間に見えてしまったら、変な言い方だが気が狂ってしまうと思う。知らなくていいこと、知るべきではないこと、いろいろある。

好奇心旺盛な人は、全てのことに手を突っ込み、全てを人に理解できるように言語化しようとするのかもしれないけど、とても危険なことのように思う。どこに何が潜んでいるかわからないのに、無防備に近づいて知りたい知りたいとペタペタ触っていたらとんでもないことを知ってしまい、どうしていいかわからなくなり戦慄する、ということはあり得る。

特に若い人は社会のことに興味津々だと思うし、将来は自分が背負うんだと血気盛んなのはわかるし私もその思いはあった。ただ、年齢と経験を重ねて思うのは、複雑な世界はとてもたくさんの人々の立場と利害が絡み合っていて、そして知らなくてもいいことがたくさんあるということ。だからこそ、知ろうとする努力は自分が正しいと信じる方向に向けてだけ行うべきであり、無差別に「教えて教えて」「なんでなんで?」とやっていると、口を塞ごうとする人が必ず現れる。そんな仕組みになっていることが肌感覚で理解できたのが現時点だ。

知る、を積み重ねていって、そして「あ、ここから先は手を引こう」という瞬間はいずれ誰しもたどり着く。ネットを見ていると、あたかも社会全ての暗部までひっぺがそうというムーブメントを感じるけれど、とかく個人個人の生き方を考えたら、私はお勧めしない。知り過ぎない努力は、この世の中で生き残るためにしなければいけないことの一つだと私は思う。