orangeitems’s diary

クラウド専任の40代インフラエンジニアが書くブログ。新規事業マネージャー。20世紀末の就職氷河期スタート時にIT業界に文系未経験で入りこみそのまま生き残った人。

「最大限の努力をした結果」なんて存在しない

 

こんな記事を見かけた。

 

togetter.com

みんなは「最大限努力した結果、自分が大したことない人間だった」と知る恐怖をどうやって克服してるの→それぞれの哲学が集まる

 

直感的に思うのだけど、最大限努力するってどうやってやるんだろうか。

最大ってなんだろうか。

例えばサッカーが上手になることを最大限努力するならば、野球の練習はできないんじゃなかろうか。サッカーだけでもいろんなポジションがあり、例えばフォワードの努力をしたらディフェンスの努力はできない。

自分が大したことのないということの裏付けに、「最大限の努力」という言葉を使うのは矛盾しているのではなかろうか。

いや、自分が選択してこれというものを見つけ、それに対して努力したんだから、最大限やっていると反論するかもしれない。でも、その選択って正しいとどう定義するんだろう。選択が間違っていれば、また選びなおせばいい。人は何回でも選びなおせる。

最大限の努力をした、と仮に言い切る人がいればそれは単に、努力することをあきらめたいことを表明したいだけか。何に?。誰に?。もうこれ以上の努力はしませんと言い切るメリットがどこかにあるのだろうか。人間には全ての選択肢を試すことができる時間は与えられておらず、常に選び続けないといけない。「最大」という概念が存在できない。無数の選択肢から一つを選び「続ける」のが人生だ。努力をすることの結果なんて、生きている限り選び続けられることを考えると、複雑すぎて認識できない。

だからこそ、自分自身に「大したことのある人間」「大したことのない人間」というカテゴライズをすることは意味がない。「過去、大したことをした人」「過去、大したことをしていない人」というのはあると思う。でもそれは過去でしょ?。未来のことをなぜ予知できるのか。過去に大したことをしていない人が、未来に大したことをするかもしれない。

プロのスポーツ選手にも現役時代大した成績を残せなかったけど、引退して芸能の世界に入り著名な解説者・コメンテーターになったりもする。

そうやって考えると、他人を評価するときに「大した人」「大したことない人」って考えるのもおかしい。みんな「大したこと」をこの先するかもしれない。だったら、過去の結果で、「大したことのない」という先入観を持つのは大変もったいないことをしている。

また、努力とは何だろうかという話もある。努力すればかなうかというと、全然違うのではないか。努力と結果は相関関係はあると思うが、努力してもできないことはいっぱいある。100mを10秒で走れるかと言うと努力してもできない。何かの方法でApple社を買収できる財力を持てるかというと持てない。でも目指そうとも思わない。自分が主体的に、何か目標に向かって達成したいな、と思ったら努力するけど、努力する前に達成できるか考えるよね。無理なことはわざわざやらない。一方で、大した努力もなくできてしまうこともある。努力してもできないこともある。

結局、「大した」ってのも自己満足の部類だ。「大したことをやった人」だって、その後何もしなくなるわけじゃない。満足した後、また何かを選択し、何かを努力しはじめるだけである。

努力と結果の関係もあやふやで、結果を定義する「大した」「大したことない」の評価も、あやふや。だったら、自分に対する評価なんて、自分にする必要ないんじゃないかな。結果が出るまで、良さそうな選択肢を見つけながら、ただただひたむきに一つ一つ目の前のことをやっていく、それだけだと思う。努力に最大限なんて、ない。