orangeitems’s diary

40代ITエンジニアが毎日何か書くブログ

余計な一言が人生を狂わせる

 

自分の選択で自分の人生を変えられる、というのは聞こえがいいが、今日、もしくは明日、その選択が自分に訪れるだろうか。そう問われると、大きく外さない限り・・。例えば出社するべき日に会社に行かなかったり。許容量を超えるお酒を飲んだり。そんなあり得ない選択肢さえ選ばない限りは、人生、そんなに変わる選択肢などないように見える。

ところが、自分の過去を省みるとどうだろう。常にベストの選択肢を選んできたつもりだし、その結果が今の自分なので後悔はしていない。

していないのだけど、「ああ、あの頃は若かった。もっと何とかできなかったのか。」という反省はかなりある。その中でもトップなのが、「余計な一言」である。

若かりし頃は、「自由でありたい」「自分の思うがままでありたい」「自分らしさを出さなければ生きている意味がない」と思っていた節がある。だから自由な発言をかなりやっていた。高校で家を出てしまったので諭す人がいなかったというのもある。

だから、やりたい放題やって、そして当然のように失敗し、痛い目に遭うと言うことを若い時からやってきた。できそこないのAIと同じように、学習が進んでいないので何が正しいかわかっていない。正しさを自分で体験して思い知るので、その正しさの正しさを深く知ることはできるのだが、擦り傷が絶えない。心に。

基本的には行動による選択で分岐していくのは、これは初期段階で理解した。この大学を選ぶ、会社を選ぶ、それは当たり前だと思ったし、それでベストを尽くせば後は何とかなるだろと思った節はあった。

軽視していたのは言葉の部分だった。言葉なんて言葉にしか過ぎず、行動で示せば誰かが見てくれていて認めてくれるだろうと考えていた。それは今なら言える。間違いだ。

言動、と言う言葉がある。そして行動、と言う言葉もある。同じように「動」という単語が添えられているが、同じ作用だと思う。言うことによっても色々なことが動く。思った以上に言う内容で分岐する。動きが出る。

いい意味で言えば、言葉で人生をバラ色にも変えられる、かもしれない。一方で地獄のどん底にも落ちる。言葉はそれぐらい力を持ち、自分の人生を大きく変えていく。

ほとんどの人は、明日も言葉を放つだろう。放った言葉が過去から今まで、ミルフィーユのように積み重なり、自分を作っている。そこにまた一枚一枚積み重ねていく。

しかも、年を経るに従い、言葉に対してその重みが強くなる性質も感じる。仕事上の責任が重くなるからだろう。ちょっとした言葉が、他人には重く取られる。自分が軽く言った言葉が、他人に思っても見ないほどいい影響を与えたり、一方で呪いの言葉にもなったりする。つまり、言葉の力を甘く見てはいけない。

何が必要で、何が余計なのか。経験則から見つけていくしかないけれど、少なくとも言葉の持つ力は意識しておいた方がいい。あの時ああ言っていれば・・は皆よく後悔するけど、あの時あれを言ってなければ・・はなかなか人は気づかないものだ。黙って失望され、黙って関係を切られるのは、辛いものだから。