orangeitems’s diary

40代ITエンジニアが毎日何か書くブログ

努力は才能を超えることができるか?

 

努力と才能。

対にして語られることが多い。才能のある人は、大した努力が無くともいい成績を残すことができる、とされている。才能のない人でも、努力を積み重ねればある一定の水準までは成長することができる、らしい。

自分の中の才能を見出し、才能がある方向で努力をすれば、あまり努力をしている自覚無しに結果を出すことができる。結果を出せば楽しいので、また取り組もうというモチベーションが高まり、更に結果を出すことができる。

・・というのが平凡な議論である。基本的にはこのシナリオで、人々は自分の進路を決め、職業に就き、なんとなく過ごしているんだろうと思う。

ただし、全ての人が計算通り開花しているかというと、それは言い切れないのだろう。割り切れない思いのまま、ただ生きるために日々を過ごす人もいよう。

才能があると思ったけど、無かった。努力しても頭打ち。できる人を見ていると、自分より努力をしていないのに評価は上。じゃあ間違えた、ということで別の道を選ぶにしては時間が過ぎすぎている。むしろ別の道の方が才能がないかもしれない。才能って何。努力って何。こんな袋小路、40代後半になるとたくさんみてきた。

 

私は趣味をいくつかもっているけど、趣味を通じてわかってきたことがある。何事も習熟するためには時間が必要だ。とにかく時間をかければある程度までは到達するが、自分が思っているよりも時間は何事もかかる。

時間がかかるということは、それに比例してお金もかかる。お金を使わずできる趣味なんて限られている。いくばくかのお金がかかる。お金がかかり続ける上に上手くならないと、「才能がないんだからやめちまおう」と思う瞬間に多く出会う。ほとんどはそこでやめてしまうと思う。

私の場合は趣味で、うまくいかなくても楽しいので、楽しいことにお金をかけているんだと思ってやめなかった。むしろ、執着した。こんなに時間もお金もかけているのにうまくいかないのは何だろうと、かえって夢中になった。延々と延々と続けていくうちに、急にうまくなった瞬間があった。いやいやたまたまだろう、まぐれだろう、信じちゃいけないと思っていたけど、不思議なことに再現性があった。再現性があるということは、うまくなったということ。そうか、時間をかけたからか、と気づくのはうまくなってから、であった。

 

夢をあきらめないで、とは言うがあきらめなくたってうまくいかない夢などいくらでもある。そこで開花できるかどうかを分けるのが才能と言われてきた。でも、どうも才能というものは、人の夢を諦めさせるためだけに存在している概念のような気がする。学校や職業のような、ある一定時間内に結果を出さなければいけない条件さえなければ。趣味のようにほぼ無制限の時間をかけられるのであれば、誰でも時間と共に結果を出せるようになるんじゃないか。ただ、お金はかかるので、お金が過度に無くならないように、努力の仕方は考える必要がある。お金も無制限にある人はどうぞ、お金を使っていただければと思うが、基本は有限であるので、工夫は必要だ。

あとは、うまくいかないことを楽しめるかどうか。うまくいくことを趣味のリターンだと考えると、こんなにつまらないことはない。上手な人の動画でも見ていればいいけど、努力するということは私はエンターテイメントだと思う。100回でも1000回でも試して、たまたま1回うまくいったときに頭の中に快感が走ればそれで十分。さらに再現性までつかめるようになれば、それは財産にもなるのだから。

 

努力は才能を超えるか。超えると思う。無尽蔵に時間とお金をかけたら、人は成長できる。あとはお金をかけない工夫。そして執着。失敗にこだわらず努力を楽しむ。これをつかんだ人はどんなことをやっても、一定以上の成果を出せるようになると思う。