なかなか興味深かったので書いていこう。
C:ドライブの話
WindowsのハードディスクがC:から始まることについて、フロッピーディスクがA:とB:だったと言うのはわかるけど、何で2つもドライブがあったのという話がある。これは、当時、フロッピーディスク2枚組みたいなソフトウェアがあった。特にゲームとか。パソコンにも、ドライブ無し、1ドライブ、2ドライブのモデルと言うふうに売ってた。
価格は、FDD無しのmodel10が168,000円、1ドライブのmodel20が213,000円、2ドライブ搭載のmodel30が258,000円と決して安くは無かったので、廉価になった次期モデルのPC-8801mkIIFRを買ったという人も少なくないかもしれません。
フロッピードライブ1台が4~5万くらいするのは法外な話だが当時はそういう値付けだったということ。で、2ドライブを買うと両方にフロッピーディスクを差し込んでおけば、ゲームはそれだけで進行した。1ドライブの場合は「ディスク2を差し込んでください」みたいな感じで、結構面倒くさいことになってた。
ちなみに、パソコンが爆発的に普及したのはフロッピーディスクが5インチのときで、私が大学生になったころは3.5インチが覇権を取り始めたころ。8インチのメディアを企業のオフィスでアルバイトをしていて見たことがあったが、アホみたいに大きくてびっくりしたことがある。
そういえば、NECのMS-DOSだったりWindows(PC-98互換)は、Aドライブがハードディスクで、C:やD:がフロッピーだったので、当時混乱したのをおぼえている。
色との戦い
昔のパソコンは、色を出すことが大変だった。
黒=0
青=1
赤=2
マゼンダ=3
黄緑=4
水色=5
黄色=6
白色=7
この8色しかなかったパソコンを持っていて、右の数字がそれを表す数字でした。小学生の時の記憶なので、長期記憶になってしまっている・・。
そしてこれが、デジタルの限界なんだと思ってた。数字がアナログを表すときに、その解像度がとても低かった時代。そこから扱えるデータの量が増えていくが、一足飛びに今の、アナログとデジタルがほぼ一対になる時代が来たわけではない。
先の、PC-8801mk2SRは、512色中8色だったが、パレットという概念があり、8個の箱に色を指定して入れていた。
同時に8色しか使えないので、8色限定のグラフィックだったが、開発者が工夫して、ドットをパレットの色で交互に重ねて色を表現する、みたいな職人芸が当時は普通にあった。赤と青をパレットに入れ、赤青赤青、とすると紫に見えるやつ。
制限が大きいデジタルの世界は、結構人間のアートセンスが試されるフィールドだったと記憶している。
CD-Rが良く失敗してた
そういやあれ何だったんだろうと言う話。
CDを自分で作れるというのが結構画期的な時代があった。
CD-Rのメディアが良く売れたが、これが、作成時(焼くって言ってた)によく失敗した。散々待ったあげくに「失敗しました」。そうするとこのメディアはゴミとなる。
メディア作る会社はこれで量産して、余計儲かったんじゃないか。
そのうちCD-RWと言うのが出て、上書き可能になったので、これで天下取ったとおもったけど、そのうちUSBドライブが出てほとんどこっちになっちゃった。
今でも、Read Onlyのメディアとして生き残っている気はする。
(システムの納品の時に、納品物をまとめて送るなど)
モニター激重で大きくて激熱
私が社会人になったころはまだ液晶モニターはなく、ブラウン管だった。このモニターが激しく重かった。10キロ以上はしてた。席の引っ越しのときに、このモニターを持ちあげて別のところに運ぶというのがかなり大変だった。
しかも、液晶とは違って奥行きもあるので、机の大部分をモニターが取る始末。
そしてモニターの裏面から強い熱気。
モニターの裏に座席があると、熱い。だから当時、オフィスの暖房が要らなかった気がする。
液晶モニター初めて見た時に、スゲーとなった。
大学生の時のヨドバシカメラにて
大学1年生のときだったかな。
「ハードディスク!50MB!40,000円!」
とかで売ってて、「すごい、フロッピー40枚入るじゃん、買おうか?(借金して)」と本気で思ったことがある。ちなみにGBじゃなくてMBなので注意。
今考えるとアホなことしなくて良かったと思った。
技術の変化はすごいね。
まだ色々忘れている気がするのだがこれくらいにしておこう。
こういう話をすると、もはやインターネット老人会と言うらしいが、インターネットがない時代の人が、戦前生まれの人みたいな扱いをされる日も遠くないのかもしれないな、と思った。