orangeitems’s diary

40代ITエンジニアが毎日何か書くブログ

高偏差値な人々が社会に適応できず、「もったいない」と人々に言われるまでのロジック

こちらは「正規分布」と言われる表だ。偏差値はこの表に基づいて作られている。

どこかで偏差値70以上と診断されたことがある方はすごい。全体の2.3%しかいないということは、100人のうち上位2人に入ったということだ。

偏差値60だって、100人中トップ16人には入っているのだから優秀だ。

私は、公立の小中学校を経て、私立の進学校に進んでいったのでよくわかる。現在の学校教育は、学校の成績によって人間を選別して集団を形成するシステムだ。学校そのものが偏差値によってランキング化されている。自分の成績を見ながらフィットする学校を選び進学する。そして、新卒採用においては、採用側が学歴を重視する。したがって会社ですら似たような価値観の集合となりやすい。

幼少のころは分け隔てない社会にいて、だんだんと選別された社会に進んでいく。私の記憶でも、公立小中学校にいたクラスメイトは、とてもバラエティーに富んでいた。進学するに従い、周りの人々の様子が変わっていった。ただし、だんだんつきあいやすい人が増えたとも思わなかったし、むしろ難しくなっていった気もしなくもない。

ただしこれは新卒採用までの話だ。社会に出てしまうとこのようなゾーニングはだんだん崩れていく。特に、正規社員のキャリアを一度止めた人は強く感じることだろう。この正規分布の存在を。このグラフにも書いたが、偏差値40~60、私がボリュームゾーンと呼ぶこの領域が、全体の約64%を占めるのである。偏差値40未満まで入れると実に85%である。偏差値60以上の人は、人が10人集まると学校教育において同質ではない人がほとんどという事態になる。

偏差値70以上はもっと大変で、自分と同質の人を探そうとすると、100人集めないと出会えない。

社会のしくみとしては、この希少な才能たちを見つけ出し、難易度の高い仕事をさせて社会の発展に寄与させるのが基本的な考え方だと思う。

ところが、大事な視点がある。この世の中において多数派となるのは、このボリュームゾーンの偏差値40~60の人たちであることを。社会において集団を形成した場合、面積的に多くなるのは当たり前である。

社会において、より平等感に基づいて民主主義的に物事を進めようとすると、このボリュームゾーンを必ず意識しなければいけないということである。話し合い一つでも感じられる。問題に対しての解法、思考力、プロセスは、偏差値70の世界と50の世界では、これは異なって然るべきである。その上で、全員のスピードにあわせようとするとどうしてもボリュームゾーンのスピードに合わせることが基本となる。多数の人がここに当てはまるのだから。

むしろ、定型的な、やり方が決まっているような仕事を、複数の人でまとまって集団で作業する場合、このボリュームゾーンに属していた方が自然に適応しやすいのである。

成績上位の人は学校の授業をろくにきかず、教科書を勝手に読んでいる人が多いという話を聞くことがあるがよくわかる。授業のテンポが遅すぎて自分の学習スピードが合わなくて退屈になるのだ。だから進学するにしたがって同じレベルの人を学校で選別するし、選別した後もまた、成績別クラスを作って選別する。

しかし、一般社会はそうやってゾーニングして生活することが難しい。

だからこそ、この偏差値上位の人たちは、実はマイノリティー、少数者なのだということを強く意識しないといけないと考える。

常に、社会に対して「自分を押し殺して合わせていく」という違和感を感じる人が多い。どこにいってもそうなのは、この正規分布が非情に表している。

高い能力があるがために、もし社会で活躍していなければ、常に「もったいない」とボリュームゾーンから、純粋な瞳で評される存在。

そして、高い能力があるにも関わらず、社会に受け皿がないために能力を持て余している人がかなり存在するというのも事実であると思う。数日前に書いた、高学歴主婦の憂うつ 女性の正規雇用率が一貫して落ち続ける理由をご一読頂きたい。

この話、どうしようもない、という話ではない。

100人集めても2人という話も、1000人集めたら20人、10000人集めたら200人。母集団さえ増やせば人数はいる。

問題はどう集めるか。今は幸運にもインターネットで人々がゆるくつながっている時代だ。これを使わない手はない。ぜひ、自分があてはまる、という方はオンラインでコミュニティーを開いてほしい。1億2000万人の国である。いくらマイノリティーとはいえ、自分一人ではない。状況を説明すれば、私もそうだ、という人は絶対にいる。

ただし、人間の相性と言うのは、この偏差値システムの話だけでは割り切れない。私自身は、進学するにしたがってかえって息苦しくなっていった。大事なのは、自分の性質を受け入れ、どう社会と向き合っていくか折り合いをつけていくことなのかもしれない、と思う。