orangeitems’s diary

40代ITエンジニアが毎日何か書くブログ

優秀な、少数の人の戦い方

 

少数、多数というと、偏差値の話が有名だ。標準に近い人の方が圧倒的に多く、優れたもの、劣ったものが両端に流れて行き、少数になる。

ただ、子どものころの勉強、というのは単なる一つの物差しである。学校生活にも、勉強はできるがスポーツはからっきしできない。字がうまい。数学が得意だが国語は苦手。いろんな尺度があることを経験したはずだ。だから、人間、本質的に優れているとか劣っているということはない。どこかに特徴を見出し活躍すればいい。そういうルールになっている。

優秀である、という領域に運よく飛び込めたとする。そうすると大量に自分より優秀ではない人がいる。そして、社会生活であるのでどうしても多数と一緒に作業をしなければいけない。

自分が優秀で、周りがそうでない、というときに全員で物事を決めてチームワークしようとすると、どうしても非効率に感じてしまう。もっとこうすれば良くなるのに。しかし、そのときにコミュニケーション能力や政治力みたいなものも一緒に優れていればやりようはあるが、大抵の人はそうではない。言葉を飲み込んで、大勢が思うようないわゆる標準的な方法を、我慢をこらえながら従っていく。社会ってなんでこんなに、わけのわからない決まりやしきたりがあるんだろう、という感覚の正体はそれである。多数決のメカニズムが支配する世界では、優秀が選ばれるのではなく、多数、つまり平凡、標準、平均のようなものが強い。少数派である「優秀」はむしろ辛い思いをする。この仕組みを絶対に人々は知る必要がある。

会社組織は、上記と違う理屈で動いている。多数の中から少数の「優秀」を吸い上げる。そして「権限」を持たせ、「優秀」の良いようにさせる。それに多くの標準が従うような作りになっている。だからもし会社世界で活躍し出世したい、と思うのなら多数に埋没するような生き方は上には上がれない。私の通った頃の学校は、「みんな」を大事にする、いわゆる標準、あるべき姿を規範としてきたのに対し、会社世界は、優れた人を優先するので、私としては、随分生きやすくなったという感覚はあった。

まあ、少数は、「優秀」なこともあれば「ポンコツ」であることもあるので、どっちに自分がいたかはよくわからないけど、少なくとも、標準と呼ばれる「みんな」的やり方はとてもわずらわしかった。かと言って、自分を主張すると変人扱いされたりした。今の学校はどうなんだろうね。

世の中を見渡すと、会社ばかりが組織でもなく、一人一人の意見を大事にする互助会的な場所はやっぱり非効率になりやすいとか。まあそうだよね。全員が納得する意見という前提で物事を勧めようとすると、どうしても足して二で割ったような内容になり、ろくなもんはできない。それでもいいという前提なので、「やることが目的」みたいになりやすい。なぜなら、やるだけでも大変だから。大勢の人が協力して作り上げるんだからそうなって当たり前。

もし、自分自身が、会社の世界しか知らない、ビジネスの世界で成功してきた、みたいなキャラクターなら特に気を付けなければいけない。会社以外の組織はまだほとんどが互助会的な雰囲気だ。ルールが全く違う。見分けるポイントは「多数決」だ。多数決でものごとを決めるような場に出るときには、頭を切り替えたほうがいい。標準、多数を味方に付ける戦略がないといくら優秀でも少数派扱いされるのがオチだ。会社を卒業した後、そのノリで人々と対応してしまい、家族や地域からつまはじきにされる年配にならないように、頭を切り替えることをお忘れなきよう。