インターネットの草創期からインターネットにいるので、この二十五年くらいの変化については体感できていると思っている。
1990年後半のころ、まだ「掲示板」というのが盛んだったときは、個人の言論を、「ザバっと」すくうことができた。
何を言ってるかというと、メディア基盤みたいなものは当時からあって、大きなもので言えば2ちゃんねるだったが、だんだんと個人ブログに移っていたり、そういったものの上で個人の言葉を、誰かがフィルタリングすることなく目の当たりにすることができた。
従って、見ちゃいけないような文もたくさんあって、そりゃあ青少年には非常に有害かもしれないものが混ざっていて、うそをうそであると見抜ける人でないと(掲示板を使うのは)難しい、とひろゆき氏が言うのも至極当然のことであった。
ただ、うそとうそと見抜ける人にとってはあんなに楽しいものはなく、ちらっとアブノーマルであるものを覗いては立ち去り、うわー見ちゃった、みたいな気持ちになるのがインターネットの楽しみだったような気がするのだ。
しかし、最早インターネットが「公共」になるにしたがって、何が起こったかと言う話である。いわゆる「記事」というのは、ほとんどが報道機関や雑誌社、あるいはネットメディアのものになっている。何を言っているかと言うと、いわゆる法人という公的な信頼を基盤としている集団によって、ある程度のレビューを受けたものが、ネットに出るようになってしまったということだ。つまり、世の中の言論を見てみようとしたって、その先には門番がいて、ある程度牙を抜いたような記事しか世間に出なくなっているということである。
いや、個人ブログはまだあるじゃないか、という声はあるが、こうやって、例えば私が書いてあなたが読んでいることは実は奇跡だ。なぜ私がこのブログを書いた結果、あなたに伝わっているのかの仕組みはよくわからない。わからないけれども、微力ながら読んでくれている人がいるのは、ちょっと、ネットメディア風のデザインをしているから、フィルターをかいくぐっているだけなのかもしれない。わからない。
普通は、個人ブログを立ち上げても、誰かの目に止まることは本当に少ない。やってみるといい。一生懸命書いて、一人二人しか来なかったらみな嫌になるだろう。そういう状態である。だから、個人は何か見えない壁に言論を封鎖されていると言ってもいいのかもしれないとも思っている。
いや、SNSがあるじゃないか、不特定多数の生の声を「ザバっと」すくえるぞ、と。いやそうは思わない。自分がフォローしている方たちというのは、おそらく自分の価値観を大きく超えない。超えてしまったらフォローを静かに外すはずである。それは、過去のインターネットの楽しみとは異質のものなのである。
ネットに「自分が思う治安のとれたコミュニティー」を作るに至ったSNSは偉いなと思う反面、どこのだれかが吐き出した、ウソとも真ともわからない、得体のしれない何かの集合体が、私の目の前に晒されるまえに、誰かがブロックしていると思うのだ。ブロックというより、距離が果てしなく遠いのかもしれない。目の前には企業の何かがたくさんあるので、その先にある小屋の存在に気づけないのだ。
まあだから、ダークウェブなんてものはあるのは知っているけど、私は見たこともない。怖いもの。わざわざ「ダーク」って書いてあるものには近づかないよね。危ない目に遭いたいわけでもないのだ。
もっと個人がざっくり発言できたらいいね、って思うけど、もうインターネットにはそういうのはなさそうだ。あれは楽しかったよなあ、って思う。