適度なストレスが成長の源であるということ

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現代においてはストレスは何かと嫌われ者になりがちだけれど、よくよく考えたらストレスも何にもないと、何か良くしようという気にもならない。だって、今でいいのだから。全てのストレスを解決してしまったら、実は退屈な世界が待っている。もし、何かやりたいなという欲望があるとしたら、それを満たせない、つまり不満であるためにそれはストレスとなるが、だからこそ満たしたいと思う。強いストレスには強い行動が付き物なのでやり過ぎはいけないけれども、ある程度のストレスがないと今度は無気力が付いてくる。何とも難しい世の中である。

家の中で仕事をしていると、結構快適である。まわりにうるさい人もいないし、話し声もしないし、むしろBGMすら自分で決められる。パソコンの環境が気に入らなければどんどん改善していくし、最終的には自分好みの環境になる。単にパソコンで何か事務作業をするならばオフィスの何倍もいいということは間違いない。

だが、このストレスのない環境で、まあだいたい1年はいたと思うが、業務を改善したいなとか、もっと言えば社会を良くしたいなとか、改善への欲求みたいなものが来る日も来る日も心の中で育たないという特徴を感じた。これは、通勤というあのストレスの塊のようなものであったり、オフィスというこれもストレスが散見されるようなものを排除した世界において、自分に対するストレスが少なすぎるために、ストレスを排除したいんだ!という思いが生まれない。

この、自分の生活において「いかにストレスを減らすか」ではなく、「いかに適度なストレスを発生させるか」というのは、結構コロナ禍以後の世の中で重要なキーになっているのではと思っている。飲み会も無くなったし、通勤も比較的空いているし、打ち合わせでもWeb会議で済んじゃうし会議室予約もいらなければ物理的に部屋に閉じ込められることもないし、上司と顔を直接合わせて雑談もしなくていいし、いろんなことがノンストレスになっていてとても良いのだけど、それだけだと進化を止めちゃうな、という直感がある。

むしろ、ストレスになるようなことを始めないといけないんじゃないか。昔は飲み会を避けて生活してたけど、状況が良くなったら飲み会が必要かもしれない。オフィスにも適度に顔を出した方がいいかもしれない。外をわざわざ歩いて社会を観察したほうがいいかもしれない。旅行に行ってみるとか。何かやっていかないと、進歩したいなという気持ちがどんどんしぼんで、しおしおになってしまう。

そもそも、コロナ前のいろんなものは最初は必要だったんだけど、だんだん前年にやったから、とか、雰囲気で続けてた、というものが非常に多く、コロナ禍はそれらを見つめなおし、実際はそんなに必要ないよね、というものを消すためにはいい機会だったと思う。一方で、本当は消す必要がなかったのでは、とか、復活させるとしてももうちょっといいやり方でやろうか、とか考えだすべき時かもしれない。ストレス社会と言われていたころは考え直す機会すらなく避けて歩くのが大変だったけど、今度はむしろ消し過ぎて、「ストレス無し社会」が問題になりそうな気がしている。

いつも心にストレスを、となんて変な言葉だと思うけど、最近はこれをテーマにしている。