orangeitems’s diary

クラウド専任の40代インフラエンジニアが書くブログ。新規事業マネージャー。20世紀末の就職氷河期スタート時にIT業界に文系未経験で入りこみそのまま生き残った人。

同調圧力との付き合い方

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オリンピックのスノーボードの試合のニュースを見ていて思ったこと。めちゃくちゃすごい大技に挑戦して、結果失敗したんだけど、その失敗した選手のもとに複数の選手が駆け寄り、すごいと褒め称えた映像を見た。確かにそれは誰も未踏の大技だったので、衝動的に駆け寄る選手がいたっておかしくない。だから、失敗とか採点とかの枠を超えて、スポーツの持つ魅力を伝えるいい映像だと思う。一般的には。

ただ、もし自分が現場の選手だったとして。そのような場面に遭遇したときに、自分が出遅れたとき。会場に選手がどんどん集まっていく映像を見ながら、

「自分はあの輪に加わっていくべきだろうか。加わらなかったら冷たい人と思われるんじゃないか。でも加わることに躊躇したのは事実。どうしようか。」

と自分だったら思うんじゃないかな、と思った。

失敗した選手のチャレンジに感動して真っ先に駆けつけた人は純粋でいいと思う。問題はそこからだ。お、それなら私も、と二次的に追った人もいただろう。そしてそのムーブメントについていかなかったら自分がどう思われるか、ここまでくると同調圧力と言っていい。もちろん、例のスノーボードの際は全員が一次的な直接的な感動だったのかもしれないので断定はできないが、同じような場面に自分が立ったことがあるような気はする。

そのとき、私は得てして、同調圧力が嫌いという思いが強かったので行かないことを徹底していたように思う。その結果、タイミングによっては本当に「冷たい人」と思われてしまう。

「これ、かわいいね〜」

という言葉は有名だ。かわいい、という言葉には明確な定義はない。だからこそ、色んな人がずれて解釈しても「かわいい」といいやすい。だからこそ、真に二者が共感してなかったとしても、お互いにかわいい、ということを相互に交わすこと自体は成立するので結果として、かわいい、は共感のツールになったと思う。

共感しあっていることが基盤である社会に属していると、よくそういうことはある。

会社の飲み会も、なんであんな、情報交換としては浅くて薄っぺらで、時間だけを費やし立場が上の人が下の人をマウントするだけのような出来事が、日本社会において長く定着したのだろうと思う人は多いと思う。

これは、明らかに、「飲み会に参加した」という共感を得るためのツールである。別に本当に真に、精神的な情報を交換しあい、それを共に感じた、ということを目的としない。ただただ、一緒のものを食べたり飲んだり、カラオケで歌ったりして、ユニークな共通の体験、記憶を共有したことだけでも、人間は共感を得たと錯覚するのである。

同調圧力が強い場合、自分がその状況に共感してもいないのに、共感したふりをしなければいけない。その「ふり」が非常に辛く感じる人も多い。私は特にそれが強かったので長く問題視はしていたがだからと言って解決策はなかった。その上、この強制共感イベントを避けたときの副作用がものすごく強く、「あいつは人と共感することを忌諱する小さい人間だ」みたいな評価も受ける可能性が強くかなりめんどうになり、「はいはいかわいいねー」と合わせることに合理性をおぼえた。ということで、どうせやるならきちんとやろうということで、ちゃんと飲み会に言ったり、「そうだねー」と言うようにもしている。

「でも」「いや」「しかし」など、逆説的な言葉を口癖にすると良くない、という話は結構有名だ。これはきっと、この共感を阻害するからだ。どうせね、人と人って、全然共感なんてしてない。科学的に調査していくとわかると思う。同じ言語を使っていても違う概念を心に宿している。だから厳密な意味での共感なんてありえない。フェイクだ。フェイクであってもね、「いいね」というのが大人なのだ。いがみ合っている国の首脳同士が、ニコニコして握手するのが人間ってもんだ。

そうやって同調圧力と付き合っていかないと、多分社会でも、家庭でも、ネットでも、大変だと思うよ。