orangeitems’s diary

クラウドで働くインフラエンジニアの日々の感想です(ほぼ毎日更新)。

生きるということ

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やはり、生きる、ということを考えざるを得ない。

 

昨日、有名な女優が死を選択した。

理由はわからない。

理由などわからなくてよい。個人の範疇であるし他人があれこれ言うことではない。

 

私が死という概念を意識したのは、大学生時代、死生学という学問の権威が講座を開いているのを横目で見たことからだ。私はこの講義を実際に受けることは無かった。シラバスの解説を読んで、動揺したからだ。死という概念をどう認識するか。死を明確に認識することができれば、その対義語としての生が認識できる。死学でもなく生学でもないのは、一対であるということを意味している。死生学という学問は、宗教でもあったり倫理学、哲学まで広い領域を含む。

今の世の中は、死はタブーであるように思う。できるだけ死を見つめないことで、生きるということに集中し、生きることが素晴らしいという文脈だ。しかし、生きることに固執すればするほど、死のことを考えることそのものが恐怖となる。

しかし、この学問は、そのタブーに挑戦する。死は恐れるものであるが、認識してはいけないものでは決してない。そこにあるのだから、それは何かを真摯に冷静に見つめること。それは生きるということを浮かび上がらせる。

ということを、たかだか二十年くらい生きてきた大学生が、真面目に向き合うことはない、ということを本能的に悟り、避けた記憶が思い出された。

 

そこから二十余年経って、思う。芸術作品の表現は、時に、死を表現する。絵や音楽で、ああ、怖いな、と感じることがたびたびあった。もっと生きていれば楽しいことはたくさんあるのに、なぜこの表現が世の中に必要なんだろうか。それは明らかに、今考えると、表現者が死と向き合いそれを表現することによって、生きることの素晴らしさ、その価値を浮き出そうとすることの挑戦だったのではないか。

おそらく死に対して向き合った人は、もし死が残酷で忌むべきと捉えた場合に、生きることは死に向かう一本のベクトルであるために、生きること自体が残酷だという結論にたどり着いてしまうと思われる。そうは思えないので、死をもっと冷静に客観的に捉えたいという欲求が、あまたの芸術作品を生み出している、という発見。それはもう、私があえて訴求せずとも、誰しもわかっていると思う。いろんな作品に、死の表現はあって、タブーと言っている割にはたくさん出てくるだろう。それは小説でも映画でもマンガでもゲームでも、音楽にも。

 

そういう動きを知りつつも、今この時点で、死生学のようなものが横に現れたときにそれに興味を持つかと言われると、未だに横目に置いておきたい、と思う。さまざまな作品が死を表現しつつ、それにたいして「ぎょっ」とする感覚を毎回持ち、そして深くは考えないその所作は、正しいと思っている。大学生の時に思ったその感覚は、未だもって正しいと思っている。タブーでもないと思っているし、挑戦する人がいたって不思議ではないし、それでいて、立ち向かう必要もない、それが死の概念であると思う。

だって、今、生きているわけだから。生きていることは、よくわからない死という概念を厳然と否定する。すごいことだ。そのすごいことを、いろんな周りの人たちと共有することはもっとすばらしいことで、生きることの醍醐味であるように思う。それは名誉とか資産とかでは表現されない、生きることの価値。SNSがこれだけ世界に普及したのは、つながりやすくなったことが生きることの価値を高めたからだと思う。たくさんつながればいいのではなく、他人と比較するものでもなく、それぞれが絶対的に、すばらしい、もしくはこれからすばらしくなる可能性を持っている。

私は、そのことを、かみしめたくなった。