人間が世界を認識するとき、それは知っていることをつなぎ合わせて、世界を想像することで成し遂げると思う。知らないことは知らないので、頭の中に在りようがない。だから多分子供はとても好奇心が強くて、あれも知らないこれも知らないと突き進んでいき、いつしか世界を全て知ったと思う。でもそれは勘違いで、結局まだまだ世界には知らなければいけないことが多くて、学生の間に大人が知るべきと考えることが頭の上から降ってきて、ある程度その人の特性に合った形で世界を知っていく。文系や理系、芸術系なんて議論は昭和のころからあるけれど、最終学歴まで全部同じことをすべての人が学ぶのではなく、それぞれ興味を持っている分野に進んでいきある程度は差別化されていく。
そうやって学生の頃は学び続けていくんだけど、学ぶというのは半ば強制されるので、ああ、自由に学びたいな。ゲームしたいな、アニメ見たいな。本読みたいな、なんて知ることに対して自分の興味のままに手に取りたくなるようになる。多分大人になるというのはそういうことなんだろうと思う。学びを止めるのではない。学ぶことを自発的に行うようになることで学生の身分を卒業するのだろう。
話を戻す。世界は知っていることのつぎはぎである。しかし実態の世界はそれよりももっともっともっと大きい。当然だ。今どこかの自動販売機が壊れていて、お金を入れなくてもボタンを押すとジュースが出てくることなど、私は知りはしないが、絶対にどこかでそういうことがあっても不思議ではない。世界とは、以下の数式で表されるのだろう。
世界=自分が知っていること+自分が知らないこと
この式は以下のようにも置き換えられる。
自分が知っていること=世界-自分が知らないこと
そしてたいてい、自分の知っていることは、知っていないことに比べてものすごく小さい。世界は大きく広いのに、自分はほんの小さなフィールドだけを世界だと思い込んでいることが、わかる。
まあつまり、世界について私は、何にも知らないのに、知ったような態度を取ってしまっているというわけだ。
これが、先入観、と言うんだと思う。
知りもしないのに、知っているという態度。
最終的にどこに落ち着くかというと、「老害」だと思う。それは、式でもう一度表すと、
自分が知っていること=世界
なのだと。この式が誤りであることは明らかなのだが、自分が知っていないことなどないという態度を取り続けることや、過度な自信、環境などによってこのような誤解を認識してしまう。
私はそうはなりたくないし、そもそもだ、
自分が知っていること<<<<<自分が知らないこと
なんて、自明の理だろう。当然すぎてくらくらするが、人間はこれすらも誤認してしまうのだから、そこに愚かという言葉が当てはまってくるのだと、思う。
ここまで論を進めると、人間がなぜ、自分が知らないことをこんなに認めなくなるのか疑問になってくるが、ここからが結論となる。知らないことは知らないので、知らないということを知ることはとても難しいことなのだ。
だって、知ってしまったら、知らない、とは言えないでしょう?
知らないからこそ、知っていないことを知ることはできないんです。
多分知るときは、とにかくやってみて、知ったそのときです。ああ、私はこれを知らなかったんだ、と。
だから、ある程度向こう見ずに、何かをやらないと知ることは増やせない。それをやらなければやらないほど、前段の「自分が知っていること=世界」に近づいていってしまう。最終的に老害となる。
子供のような気持ちで、とも言いますが、とにかく何かをやってみないと話は進みません。どれだけ知るということは難しいのかということを知ることで、つまらないと思った世界が、実は未攻略だらけのマップだったことに気が付けるはずです。
意外と知るということは難しいのです。