orangeitems’s diary

40代ITエンジニアが毎日何か書くブログ

もっと素直に生きられたなら、を言語化してみる

 

ネットって、社会にいろんな人がいると知れて、本当に役に立つ。

昔は、マスメディアしか発信することができなかった。今や、個人でもこうやって発信しているし、それらがある程度無秩序に飛び交っている。

あまりにも社会秩序に混乱を与えるような投稿は、ニュースの通り大注目を浴びた上で社会的に大批判され、そうやって秩序を保っている。

色んな情報からわかることは、「私は普通です」「私は正常です」っていうそのステータスって、案外、そこまでありふれたことではないこと。

そもそも、私自身が普通や正常の類に分類されるかも、そこまで確信はない。ただ、外観的には普通であろう、正常であろうと振る舞っているだけである。

ネットには内面が溢れ出してくるので、だからこそ、リアル社会を見ているよりも異常性がかなり強く現れる。それを人々が面白がって遊んでいるように見える。

人々の心理状態って、もしかしたらほぼ「異常」なのでは?。

その仮説に立つと、リアル社会の見え方も大きく変わってくる。みんな異常なのに、正常っぽく振る舞っているのであれば、あいつもこいつも、偉い振りだけしていて、中身は狂ってるんじゃないか、と。

まあ、そのとおりだと思うんだ。普通や正常なんて、取り決めでしかない。本人がどういう精神状態かなんて個人情報の最も機微なものだと思うのだが、このネットという代物、どんどん溢れ出てくるではないか。

そう考えると、自分は異常かもという前提を持ち、その上で何が正常であるかを後天的に学んで身につけていくことというのは、非常に大事なことと言える。だって、普通にしてたらとんでもないこと、しちゃうよ。

案外それが、教育というものの最も大事な目的なような気がしている。自己の異常性を意識した上で、社会の普通や正常を学び、そして行動としてコントロールできるようにする。

環境が悪い、育ちが悪い、のような話って、別に本人が染まってしまうんじゃなくて、まず自己認識ができていない。そして、外形的な普通や正常を知らない、というこの、内面 x 外面の掛け算で説明できると思っている。

まずは、内面の、自分自身が普通じゃない部分を知ること。それは罪ではない。だって、持って生まれたものを今更否定してどうなるのだろう。それよりまず向かい合い知り、否定しないこと。内面が内面を否定してもろくなことはない。

次に、外の社会における常識のようなものを学習すること。内面に取り込もうとする人もいるが、アホの所業だ。そんなに内面は変化しない。「明るくなる方法」という本を読んで内面が明るくなるわけがない。違うのだ。外における普通や明るさ、正しさのようなものは「取り決め」なのだ。内面は内面のままで、行動だけ制御するなんて、ある程度は技術的な問題である。あまりにもかけ離れた自分を演じることは無理があるとしても、正しさを知っておくだけで行動は変わってくるだろう。

このように、内面も、外面と同様に正常です、みたいなフリをたくさんの人々が行っているときに、心の底から自分は正常です、普通です、と思い込んでいる人は、一種の異常性があるんじゃないかと思っている。その精神状態においては、本当の自分を押し殺すことになるので、異常に自己肯定感が下がるのではないか、と。そりゃそうだよね、自分の内面まで殺して、正常を振る舞うわけだから、ね。

もっと素直に生きられたなら、きっと言語化するとこんな話だろうか。