orangeitems’s diary

40代ITエンジニアが毎日何か書くブログ

全員が出世する時代が強制的に訪れる

 

出世したくない、という言葉自体が今後禁句になっていく時代が訪れるんじゃないかと思っている。というのは、今後出生者数は確実に減っていくことが決まっていて、若手がどんどん少なくなっていく。そして高齢者は引退していくのだから、結局のところなり手が減っていくということを示している。

ただ、社会が生み出さなければ行けない量は存在し、それを支えるために一人あたりの負担は増えていく。だからこそ、生産性向上という言葉は産まれたのだ。人が減るけれど生産量を維持していくのであれば、効率が大切、という話になる。

さて、効率を上げるのはいいが、その上げた効率を誰かが制御しなければいけない。無人で動き続ける仕事など、ない。効率化・人員減らしで行き着くのは少数精鋭だが、やりすぎると「属人化」する。その誰かが退職した途端に、社内に誰もわかる人がいなくなり危険な状態になるから、人減らしも限界はある。むしろ人を確保しなければいけない状況になる。

何らかの組織で仕事をまわすときに、全員が集まって「この仕事誰か担当してもらえますか??」と投げかけたときに、誰も視線を合わせず無言になって、できればやりたくないな・・となる現象を過去何度も見てきた。皆、責任を負いたくない。もし責任に対して適切な報酬が払われるとしても、その報酬より無責任であることのほうを望む。もしくは、適度な責任で適度な報酬が欲しい、なんてことを言う。

「私にできることがあれば、何でもやります!。私にできることであれば・・・。」

と言って、レトリックとして自分に能力がないことを盾とし、責任を負う振りをして、無制限に責任を負わないようにする人もいるし、見てきた。

しかし、もうそんなことを全員が言っている時代は、終わろうとしているのである。

人がたくさんいた時代は、むしろ選抜をしていた。やりたい人がたくさんいて、やる気もあり能力もある人を選び出せばよい時代は確かにあった。

今は違う。人は限られていて選んでいる余裕はない。みんなが、重い責任を分かち合う必要がある。誰かがやらなければいけないのだから、能力の有無を論じるのは時間の無駄だ。今いる人たちが、みんなでやっていこうというビジョンに変えるべき時代が到来している。

そうなると「私は仕事を選ぶ権利がある」という職業選択の自由についても、発想の転換が必要になる。どんな職場に行こうが、無責任な仕事などない。責任は重いが、技術の進歩によって少数の人間で制御することができるようになる。その時、出世したくないというのは、仕事をしたくないと同義になる。

むしろ、たくさんの人数を束ねる仕事というより、少数精鋭のユニットがたくさんできて、一つのユニットが多くのことを回すという組織論に時代は進むはずだ。それが生産性の向上の行く先だからだ。人海戦術的な、生産性の低い仕事はどんどんなくなる。事務員のような職種もなくなる。そして人も減る。そこから先どうなるかなんて、考えればわかることだろう。

今後、出世したくない、などない時代がやってくると思う。であれば、もはやそれを口にすることすら意味がない。