orangeitems’s diary

40代ITエンジニアが毎日何か書くブログ

メモなんて取らなくていいから、まず理解してほしいと思うこと幾度も

 

人から教わること、教えること、両方経験はありますが、そのプロセスにおけるメモの話です。何度か言っていますが、私はメモを取りません。メモを取ると言っている人の表情を見失ったり、言っていることそのものの理解にかける集中力が削がれるからです。

もともと混み入ったことを伝えたいなら、テキストで欲しいと思います。直接の会話でやりとりをするなら、それより、ロジックが大事だと思います。論理的に把握できれば、後は詳細な話をテキストでまとめて送っていただければ勝手にあとは理解しますから。

それを、言った内容をメモを取らないと忘れてしまうだろうが、と昔の指導者はメモを強要していましたが、そういうときの指導者の話は長いです。教えること全てを音読するからでしょうね。それって時間の無駄だと思うんですよね。だって、ほとんど教科書に書いてあるし、書いていないことは先生のノートに書いてあってそれを黒板に写しているだけでしょ?と。

ちょっと話が学生時代まで逸れてしまいましたが、社会人になってもこの手の伝達は健在でした。ここはテストに出まーす、と言って黒板に書き出す先生がいらっしゃいましたが、それより黒板に書く内容を全部別の本にしてくれたら勉強、楽じゃない?とずっと思ってました。

会話のバリューって、聞き手のわからないことに合わせて、教える方がアレンジできることだと思うんですね。ロジックというのは本で読むだけでは理解が浅いので、その中で何が大事なのかを有段者が伝える。そこで、教科書を頭から最後まで読んでいくようなスタイルの教え方が一番最悪です。そんなの自分で読むわいと。後、教科書に書いていないことを授業でしゃべって、それを定期テストに埋め込み授業を聴いていたかの診断とするみたいなのも、最悪です。

教えることの目的は、理解することです。メモを取ったら理解が進むわけじゃない。メモは忘却防止です。忘却しない方法ならデジタル技術が進んだ今、メモじゃないだろうと。それより目と耳を使って、脳を動かしたほうがよっぽど有意義な伝達になるんじゃないだろうかと思う次第です。

ちなみに、メモを不要にするのが「マニュアル」なのかというとこれもまた違います。マニュアルになるほど情報処理されていないのが現実です。現実にあふれるいろんな断片的な情報を、頭の中で整理し、定形的に何度でも使えるようにしたものがマニュアルです。マニュアルとは結局、情報処理した結果にあるのですが、教える、教えられるの場では、情報処理する前の状態であることが多いです。いろんな断片的な情報をつないで、一つの結果を出すようなことをするときに、マニュアルはあくまでも参考情報にしかなりません。過去それは正しかったけれど、今回はそれがそのまま使えるかは中身を検討しないといけません。そのためには理解が必要です。理解することは、やっぱり目と耳と頭を使うことが必要です。

教わる側の理解が進むために、まずはいろいろな情報がデジタル化され、断片的でも保管され教わる側が自由に見られる必要があります。それに対して、どう解釈し、どうつなげるかを教える側がポイントを教えます。そこでやっと理解が進みます。勘のいい人は、教える人がいなくたって、情報をつないで処理し、仕事ができるようになります。教える側は、定型的なことを1から10まで伝えるのではなく、散らばっている情報をいかに自分の理解につなげるかを、伝えていくのです。

未だにメモを取る人を止めることはしませんが、まず理解してくれよと思うこと幾度も。だって、理解したことをまとめるのは後から一人でもできるでしょ、と。それより、頭と目と耳を使って、精一杯理解しようとし、わからないことがあったら質問してね、答えるから。そういうことが、教えることでありたいと私は思います。