orangeitems’s diary

40代ITエンジニアが毎日何か書くブログ

IBMがJava 8を「少なくとも2025年までは確実にサポートする」とアピール

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IBMのJava 8サポート

以前、当ブログにおいて、Javaに関するIBMの動きをレポートしたことがありました。

波紋呼ぶJavaサポート打ち切りの横で、IBMがちゃっかりバージョン8のサポートを2022年まで伸ばしているという話 - orangeitems’s diary

  

この流れに沿って、強力にJava 8支援をIBMが始めたようなので共有します。

サポート延長だけでは済まないJava 8の移行検討 【Javaアプリケーションを超軽量にしてマイクロサービス化する方法】 | IBM ソリューション ブログ

 

Java 8ユーザーを2025年までサポートする宣言

Javaコミュニティーの混乱をしっかり研究して、営業強化を図っていますね。

 

少なくとも2025年までは確実にJava 8ユーザーをサポートする

Javaをとりまく混乱を受け、既存資産保護や運用環境の現代を積極的に支援する姿勢を見せるのがIBMだ。

「少なくとも2025年までは」、というワードは強いですね。レッドハットは2023年までだが自社ユーザーのみと言っておきながら、レッドハットもIBMは買収しますし、IBMに相談することがロジカルに思えます。

 

Open J9+OpenJDKでのJava 8サポートは2022年までだが、IBM SDK for Java Technologyでは「少なくとも2025年までは確実にサポートする」という。既存Javaユーザーは、まずは「Open J9+OpenJDK」か「IBM SDK for Java Technology」に移行することで、アプリケーションを安全に運用しながらリプレースや再設計の計画を立てる猶予を持てる。

IBM自体はレッドハット買収含め、オープンソースコミュニティーに対して貢献している企業ですから、先日言及したオープンソースとフリーライダーの関係のような不穏な状況ではありません。

 

私なら

個人的な見解ですが、Java 8について、RedHat Linux + OpenJDKにするにしても、IBM SDKにするにしても、IBMに相談するのが今のところお勧めです。

そういえばもう今月(2019年1月)でOracleのJava 8サポートは終了するんでしたね。

皆様、結局Oracle Java 8で作られたアプリケーション資産はどうされるのですか?

 

そんなにSIerも捨てたもんじゃないと思うがなあ

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SIerへの問題提起

今日出稿されたこの記事を読んで、なんとなく正しいと思うこともあれば、そうじゃないとおもうこともあり・・。違う見方があるということも提示したいので感想を書いておきます。

 

tech.nikkeibp.co.jp

 

感想

日本企業において、自社で完全にITを乗りこなしていてデジタル戦略を内製でこなしているケースって、本当に少ないと思います。というのは日本の主業は製造業であり、IT自体はアメリカが本流だからです。長い間、アメリカのスタンダードが日本に渡ってきて、日本人はありがたく使うというのが文化でした。こんな自国ではどうにもならない分野を自社で使いこなすより、専門の企業に丸投げした方が無難です。そうやってユーザー企業とSIerの蜜月は始まったと思います。また、文中にもあるとおり、システム更改には波があり、短くても5年に一度という単位です。ずっとIT関係社員を雇い続けるのは不毛で、投資するときにだけお金を用意したほうが経済的です。しかも他社のSI経験のあるSIerに頼むと、競合企業や海外企業のノウハウまでお金で購入できます。いいことづくめです。

SIerはSIerで、ユーザー企業に技術者を常駐させより親密な関係を気づけば、安定的な収入が見込めます。急な工数増が発生した場合には、下請けのパートナー会社を利用する手筈も整っています。

おそらく平成の30年間はこの文化が醸成された期間だったと思います。

一方で、弊害も確かにあり、常駐ポストにたまたまハマって長期間席を温めていると、だんだんユーザー企業の一員のような感覚が芽生えてきます。ユーザー企業の居心地がいい場合も散見され、悪い面としては競合企業や新しい動きに対して鈍感になってしまいユーザー企業の下請けと変わらなくなる・・これはそういうケースもあると思います。

さて、今後このような状態が長く続くかというと現実的に変化は起こっています。業務パッケージの発展と、クラウドの存在です。年々、スクラッチのオンプレシステム改修を長年行ってくると、改修にかかる費用や保守料が重たくなってきます。しかも技術員も入れ替わりが発生し仕様変更のハードルも上がります。抜本的にシステムを見直すときには必ず、これまでのお抱えSIerのスクラッチ提案と一緒に、既存パッケージとそのカスタマイズという選択肢を比較するようになっています。しかも、クラウドの登場でオンプレミスのお守りから一部でも解放されたり、サービスだけ利用することで今後の変化にも強くなるというメリットが出てきました。

SIerも、クラウド+パッケージのタッグで他社に逃げられたら困るので、オンプレの費用を戦略的に安くしたり、自社クラウドを構えて要望を吸収したりするようになっています。かつ、それでもユーザーがクラウドに流れるのであれば、AWSやAzureも一部引き受ける、ということで生き残りを図っている状況と理解しています。

一概に、SIerなら常駐にドはまりして世間知らずになる、というのは言い過ぎで、クラウドやパッケージビジネスの変化に対して柔軟にSIerも戦略を変えてきていて、ユーザー企業の御用聞きに対して、日経新聞が煽るような選択肢は自前で用意できるように準備している、といったところです。SIerのシステムエンジニアも、社内の空気を読み切ってうまくサーフィンすれば、いろいろな大手のお客様で少なくない予算を持って最新のテーマに取り組めると思います。もちろん、技術力があり運もある人が成功するのはどんな世界でも同じで、逆もまた然りです。評価が高い人がよりよい道を進むのは自然の理です。

一方、ITベンチャーのほうがSIerよりいい、というのはこれは語弊があると思いました。ベンチャーと言った時の振れ幅は相当なもので、外れた時のそのリスクたるや、SIerの比ではありません。ベンチャーだけあって、外れたときは逃げ場がありません。大きなSIerだとまだ配置転換があるのですが。

ユーザー企業も大手の場合は、ITベンチャーとべったり直で付き合うことは稀です。信用情報が低い企業だと、口座を開けないので、どこかのSIerを商流に加える必要が出てきたりします。B2CならまだしもB2Bで企業の基幹システムに対し実力をつけたいなら、私ならSIerを勧めますね。今SIerで活躍している人の経歴を見ると、SIerを渡り歩いている人はすごく多いです。ビジネスモデルが似たようなものなので、移りやすいんですね。一方で、ユーザー企業のIT担当者も元SIerが非常に多いです。ということで、安易にITベンチャーのほうがSIerよりいいよというのは、私は反対です。もちろん、大きなSIerから、ベンチャーで勝負をかけるというのは合理的な場合もありうると思います。ハイリスクハイリターン。

 

まとめ

古い企業は頭が固くて、ベンチャーは頭がやわらかい。

若い人は柔軟で、年配の人は新しい技術に弱い。

SIerは御用聞きで人月商売、ITベンチャーが洗練されている。

・・・などと、いろいろな「正しそうな一般化」があるのですが、私は疑わしいと思っています。

地味な仕事の中にイノベーションが隠れていたり、富の源泉が隠れたりしていますので、メディア記事に対しては、本当に正しいのかという仮説を持って接したほうが良いと思います。

メディア記事のステレオタイプな表現を真に受けて、実際は違っていて、自分が損をしないようにすべきかと思います。

 

Kubernetesを本番運用するときのベストプラクティス

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Kubernetesと本番運用の話

日本マイクロソフトのKubernetesを本番運用する際のレポートが@ITで紹介されています。有用な記事ですので共有します。

 

www.atmarkit.co.jp

日本マイクロソフトは2018年11月5~7日に「Microsoft Tech Summit 2018」を開催した。本稿では、Microsoft Cloud Developer Advocateの寺田佳央氏の講演「Javaを活用したマイクロサービスのためのKubernetes活用」の内容を要約してお伝えする。

 

本番運用する際の注意点

安易にKubernetesを選択すると、予想以上に大変な思いをする

私も何度かこの話を書いていますし、もはや真実なんだと思います。

数年後はもっとstableなものになっていると思うのですが、現状は地雷がたくさん残っています。

ただし、いいところもたくさんあるKubernetesなので明確なメリットを定義して取り組むべき技術だと思います。

 

世の中の情報をうのみにしない

「Kubernetesを試しに使ってみるというような“Hello Worldレベル”の記述は容易で、世の中にはそうした情報があふれている。しかし、このような情報をうのみにして、本番環境に使い回すのは避けるべきだろう。本番環境で運用するために必要な設定が記述できているのかどうかを理解する必要がある」

 Kubernetesは「YAML形式で記述されたマニフェストファイル」を読み込ませて動かすことが基本です。

このyamlファイルがインターネット上にはたくさん落ちているのですが、Google CloudのKunbernetes Engineの例であったり、AzureのAKSであったり、IBM Cloud Kubernetes Serviceであったり。またはMinikubeというスタンドアローンでテストできるものであったり。環境依存の実例があるので注意したいところです。

または、Kubernetesのバージョンが異なるため動かないものもあります。

ベンダーのオンラインマニュアルが一番確かなのですが、そのベンダーのKuberenetesのバージョンやマネージドサービスの内容も時とともに変わっていきますので、それすらもうのみできないところがありますので注意です。とくに日本語訳は情報が古くて、英語のドキュメントを見ると最新情報が掲載されていたということはざらです。

一つ一つ、理解しながら進めていかないと、落とし穴を作りこんでしまうことになるので注意です。

 

本番環境ではどのような設定が必要なのかを十分理解する必要がある

「リソースやネットワーク、パフォーマンス、死活監視などを考えてマニフェストファイルを作成することも重要だ。labels以外にも、さまざまな設定項目が用意されているため、本番環境ではどのような設定が必要なのかを十分理解する必要がある」

こちらはとても痛感するところなのですが、ところが「本番環境で必要な設定」とは何かまだ定まっていないところが問題だと思います。

モノリシック、つまりこれまでのインフラの仕組みならば、リソース監視・ログ監視・プロセス監視・サービス監視といった部分を抑えれば問題ないのは肌感覚になっています。しかし、コンテナになった瞬間に常識が通用しなくなります。早く「常識」が共有知になってほしいところではあるのですが、基盤となるKuberenetesがどんどん変化していっている状況においては、その場その場で、何が必要かを考えていかねばならないと思います。

 

Kubernetesをバージョンアップした後にコンテナが動く保証はない

「ローリングアップデート機能を本番環境で安易に利用すること、またマネージドサービスが提供するGUIを通じて、Kubernetesを安易にアップデートすることはやめた方がいい」

これは金言ですね・・。黙って私も従おうと思います。

しかし、たまにこういう話が出てくるんです。

 

japan.zdnet.com

 

アップデートは危険なのでバージョンは上げないで運用しよう。と思ったら、バージョンを上げないと危険みたいな話が急に出てくるのがセキュリティーの世界です。この件だけを考えても、バージョンを上げないで運用することはほぼ不可能だと思います。

一方で他のソフトウェアのように、互換性は担保して脆弱性対策だけ進めるようなLTS(長期サポート)が存在すれば楽なんですが現状そうなっていません。下手にJava 8のような存在を作り出し長年機能追加ができなくなるような目に合わないようバージョンアップしやすいリリース体系になっていると思います。でも、「バージョンアップすると動かなくなるかもよ」と言われると、

 

「動く保証を持たないまま、本番環境で動いているKubernetesクラスタのアップデートはお勧めできない。もし、Kubernetes本体をアップデートする場合は、新規クラスタの構築を推奨する。最新バージョンのKubernetesで、利用していたマニフェストファイルが動作することを確認し、ロードバランサーを用いて移行するようなブルーグリーンデプロイメントをする方がより安全だろう」

 ですよね、ということになります。

したがって、いくらクラスターを作成した際にテストを厳重に行ってもバージョンアップ時にはクラスターの再作成と移行が必要になるということです。インフラチームがクラスターを構築したら、あとは開発チームにコンテナーのデプロイはおまかせ!、と行かないのが現状の悩ましいところと理解しました。

 

PVの利用はできれば避けた方がいい

寺田氏は「PVの利用はできれば避けた方がいいだろう」と説明する。

 VolumesやPV、PVCを扱うためには、ストレージのバックアップ、リストア、ボリュームのサイズ調整方法などを自身で考える必要があるからだ。また、アプリケーションをスケールさせる際、VolumesやMySQLのようなDBMSをKubernetesで管理していると、スケールが困難になる場合もある。

今のKubernetesの抽象化が足りていないところの一つはこれです。

PVやPVCという概念は、インフラでいうストレージ管理そのものです。

Kubernetesを考えた人は、PV(物理ボリュームの定義)はインフラチームが定義して、PVC(物理ボリュームから必要な量を切り出してほしいという定義)は開発チームが定義、ということで抽象化しました。しかし、結局本番運用では失敗は許されないのでPVCは100%成功する必要があります。とすれば開発チームもインフラを気にしなければいけないということで、抽象度が足りないという評価です。

コンテナではPVを触る書き方はしない。APIでKubernetes外にあるデータベースサーバーなどに通信で接続し、データの作成・保存・更新・削除は依頼するようにする、ということです。

こういう話もベストプラクティスだなあと思う反面、PVやPVCは使えるようになっているので迷う人、苦労するひともいらっしゃるんだろうなと思います。

 

「大変な思い」を共有していく

私自身の経験から言えば、Kubernetesはインターネットにも書籍にも、求める情報を正しくすぐ見つけ出すのが難しい状況にあると思います。

試行錯誤して正しい情報を見つけ出すことが最短ルートなため、冒頭の「予想以上に大変な思い」につながります。

この状況を中期的に打開する方法は、経験したシステムエンジニアが、その試行錯誤した結果をどんどんインターネットにアップロードすることだと思います。オープンソースへの貢献としても理にかなっていると思います。そのうちに、ベストプラクティスが醸成され書籍になったり常識となったりします。

私も気が付いたことがあればアップロードしていきたいと思います。本当に便利になったKuberenetesの先の世界を見てみたいです。

 

田舎で仕事ができるかどうか

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私の定義する田舎

私は田舎出身です。

と言っても、30年ほど前の話なので、そのころの田舎はまだ活気がありました。大型スーパーが進出し商店街が寂れていく現象が起こり始めていたころでした。

小学校は一学年2クラス、中学校は3クラスあり地元社会はそれなりに立派に見えていました。ただ、同級生は何となく悟っていて、高校なり大学なりを卒業し就職するときには都会に出なければいけないことを覚悟していました。地元に産業は無く、役所か病院で働くしかありません。農業や漁業などの第一次産業は商売にならず幸せにならないと親世代は考えていたに違いありません。そういった地域の卒業式は都会のそれとは確実に違っていて、遠くの地域に行かなければいけない宿命が現実となり、散り散りになる仲間たちが決心をする式典なのですから、なかなか過酷だったと思います。

今、その田舎はどうなっているかというと、当時独立した町だったのが市に統合され、役場は出張所になっています。役場が無くなるということは地域としての拠点が無くなるということで、影響は小さくなかったように見えます。行政として効率は良くなったのかもしれませんが、町全体の活性化と言う意味では大きなマイナスだったんだろうと結果だけ見れば思います。

町に5つあった小学校、2つあった中学校はそれぞれ1つの小学校、中学校に統合されました。それでもクラスは1学年に1つしかなく、それでも数人しかいないそうです。広い町だったので徒歩で通えるはずがなく、スクールバスが毎日生徒のお出迎えをしているそうです。

私の知っている田舎はもうなくて、里帰りすると形は不思議なほど昔のままですが、いろいろなものが朽ちていたり平地になっていたりして、おそらくあと数十年ほどすると町ごと無くなっているのかもしれないなと本当に思っています。

 

ITと田舎の経緯

20年の間IT業界にいて、インターネットが出現したりデータセンター、クラウドという流れを経験しながら、もしかして田舎でも仕事ができるのではないかと思った瞬間もありました。特にこのCMのことをよくおぼえています。


1999年CM-IBM-e-buisiness2.mp4

インターネットにつながれば場所に関係なくビジネスができるということで、この世界観はすでに現実のものとなっています。サーバーサイドも、インターネットさえ引き込めば都会に機器がある必要もなく、IT業界に所属する会社員も田舎で仕事できる日がやってくるかもしれない、そう思ったときもありました。

しかし、そうはなりませんでした。データセンターが田舎にある場合、まず機器の保守が大変です。面倒を見る人が田舎に常駐しなければいけませんが技術者はまず田舎にいません。また保守部品を取り寄せるのも大変で、物流拠点が都会にある以上都会にあるデータセンターのほうが安心です。したがって、人と物が大量にある都会にデータセンターが作られ、そこにまた人と物が集まり、というループが発生したように思います。

かつ、インターネット上でビジネスをやりたい!、と思う顧客も都会にいます。ということは営業拠点は田舎におくことはできないので、営業所は依然として都会に設置する必要があります。当時はリモートでのコミュニケーションは電話とメールぐらいしかなかったので開発拠点を田舎に置くわけにもいかず、結局は都会にIT業界は集まってしまいました。

これが私が知っている、都会一極集中の経緯です。

 

今はどうか

ブロードバンドという言葉そのものも忘れられるようになり、多少の田舎であっても帯域の広いインターネットがつながるようになりました。この状況であれば、営業拠点は相変わらず都会においても、技術拠点は田舎に持つことは不自然ではないと思います。

事例もたくさん出てきました。

 

www.itmedia.co.jp

Sansanが徳島県神山町にサテライトオフィスを設置してから4年3カ月。そこで実際に働く人々はどのような成果を上げ、企業としてどんな価値が得られたのか。徳島の市街地から30キロほど離れたその地に向かい、“中の人”たちに聞いてきた。

 

www.huffingtonpost.jp

自然に囲まれた田舎で生活や仕事をしたいけど、都会の暮らしも捨てたくない。

そんな"いいとこ取り"ができる「2拠点居住」と呼ばれるライフスタイルが、注目を集めている。

長野県富士見町の移住者向け共同オフィス(コワーキングスペース)「富士見 森のオフィス」を拠点に、東京と長野の生活を両立する人たちが体験を語るイベントが、2月27日に東京都内の「DIAGONAL RUN TOKYO」で開かれた。

 

news.yahoo.co.jp

「都会へ出ていかず、地元で進学・就職したい若者が増えている」

「働き盛りの世代で地方移住に興味を持つ人が増えている」

最近、こんな話を聞いたり、身近な人の動向から実感したりすることはないだろうか?

マクロで見れば、東京圏に人口が一極集中している状況は相変わらずだが、一部では仕事を通じて地方と関係を結ぶ人や企業の動きが生まれ、それが地方活性化に挑む地域の活力にもなっている。四国の山間地域にサテライトオフィスを置く都市部の企業、副業として地方の企業の仕事をする首都圏在住の社会人を取材した。

 

ある程度成功し余裕のある企業が田舎にサテライトオフィスを構えて希望者だけ移住させるパターン。フリーランスであれば契約主が都会にいるので、週数回だけ都会に出向き、あとは田舎でリモートワークするパターン。この2通りが大勢のようです。

前者の企業のサテライトオフィス化については、リスクがあるとすればその企業に元気がなくなった場合です。つぶしがきかない、という表現が最も正しいかと思います。結局は都会に戻らなければいけない、そんなリスクを抱えて田舎に生活圏を構えなければいけないのは間違いありません。

後者の、2拠点移住については、これは得られるものと失われるもののバランスが重要です。2拠点である分どうしても移動時間や、移動にかかるコストが必要になります。そうすると、都会にいるフリーランスの方が単価面でも実働面にも有利になります。田舎に拠点を持つことで集中でき明らかに生産性を上げる。そんな覚悟がないと戦っていくのが難しいのではないかと想像しました。

どちらにしても、現実にトライされている方がいらっしゃって、すでに実現できていることは興味深いです。得られる部分、つまり田舎暮らししながらIT業界に関わっていくということは魅力的です。単純に、「いいなあ」と思います。田舎の持つ、自然の美しさや人々のおおらかさは都会にはありません。

 

福岡にIT業界が集まる

まあ田舎はいろいろあって難しいよね・・、でも東京ほど都会じゃなくって、ちょうどういい都会なら、デメリットがいろいろ軽減されていい感じじゃない・・?

 

nulab-inc.com

 

ということで、ここ最近福岡が注目され、実際にIT業界の人が増えていると聞きます。

福岡は何度か行ったことがありますが、オフィス、住居、交通、商業地のバランスが秀逸で、成長力を感じる街です。

ただ、福岡ばっかり成長したら結局は第二の東京、大阪になるわけで、私としては「本当の田舎に住みながらIT業界に携わる」ことに憧れますね。

冒頭のIBMが作ったCMの、砂漠でも仕事ができる。まだそんな時代にはなっていませんが、あのときの「もしかしたらそうなるかも?」という直感は大事にしたいと思います。5Gという新しい技術がついに実現する状況で、次の可能性を考えていきたいと思っています。

 

人間の全体智に対しての考え方と、それでも人間しかできないことの整理

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課題文

今日は、「人間の本体は心臓でもなければ脳でもないという価値観」の記事について考えてみたいと思います。

 

kawango.hatenablog.com

いろいろはしょって、ぼくが考えたひとつの結論を書くと、世間一般で思われている知性というものの実体のかなりの部分は、個々の人間は持っていなくて、社会が持っているものであるということだ。とくに人間が高度な知性の証だと考えるものほど、実体は社会にあって、ひとりひとりの人間は持っていない。

 

考察

人間社会の智は人間の脳や肉体にはなくて実は外部にあるという説は、大昔からその通りだと思います。コンピューターやAIがこれをもたらしたのではなく、旧来は紙の本がストレージの役割を持っていて大学が最もデータを保持していて、そしてそれにアクセスするために大学に入学していたのではないかと思います。その智を応用するかたちで民間企業があり、社会から求められる成果物を大量生産することで社会が回ってきたと思っています。いたって昔から、人間一人の脳に保管できる情報は社会全体が保管している容量のほんの一部でした。ある情報に行き着くためにはどの本にアクセスすればいいかのインデックスを持っていて、かつ特定の分野の智をできるだけ自分の脳に溜め込んでいるのが旧来の「物知り」だったと思います。また、その本へのアクセス権すら権威によって制限されました。民主主義になって地域に図書館が整備されたのはそのためです。まずはこの経緯を無視してはいけないと思います。

さて、紙の本が社会の全体智であるという通念がここ最近で陳腐化してしまったのはご存知の通りです。日本だけ見れば、全国民にインターネットへのアクセス権が行き渡り、その奥には無尽蔵かつ国境すら超えている大量のストレージに社会智が保存されているのです。そしてGoogleがストレージに眠る情報をデータベース化しそのアクセスを最適化し、誰でもアクセスできるようにしました。そこで情報が恣意的に整理される危険性があり、人間の思考が影響を受けるのは、人間が外部に接続されることによって機能することを証明していると思います。一方で、より個人的、例えば口コミのようなアクセスルートさえ、SNSの登場によりインターネット経由となっています。

大前提となる「知性の実体は人間内部ではなく外部にある」は正しいとしたうえで、その外部環境が大きく変わったことで、大学や図書館の意義が大きく揺らぎ、現在、教育や研究とは何か再定義が求められていることは簡単に想像できます。

これまでは教育とは、社会の全体智たる書籍に対して、どれだけの量を人間の脳に取り込み、スタンドアローンで暗記したり計算したりする能力を競っていました。私の世代の教育は完全にこの教育方法でした。参考書や問題集をたくさん買って暗記したり計算したりしました。そして、テストに対して再現できるかの確率が、点数でした。100点だと100%です。80点だと80%。そしてその優劣を問われたのが大学受験でした。これが優秀なほど希望の大学に入学することができました。

ところが、現在インターネットからほとんどの情報が入手できるようになりました。論点が変わりました。無尽蔵な情報からどうやって必要な情報にたどり着き、その意味を利用可能に解釈するかということが論点に変わりました。テストで言えば、パソコンやスマートフォンは持ち込んでいいから、最適な答えを導き出しなさい。こうなったのです。暗記一辺倒だったのは紙の本のアクセスしにくさからもたらされたのであり、インターネットによって情報処理能力を競う時代となったのです。

情報処理自体が人間の能力の優劣となったとき、それではその能力はコンピューターに代替できないのか、これが2019年の最大のトピックであり、旧来とは全く違う論点なのです。大昔のAI論争と違うのは、人間が情報処理の能力を競っている時代に突入したという環境です。もしAIが実現できたら、人間の活動自体の多くはコンピューターにより代替できるということになります。そして、今やテキスト情報ベースでは実現すらされてしまっています。最近スマートフォンを触っていると、検索すらしていないのに、自分が知りたい情報が勝手に出ていませんか?。あなたの知らないところで勝手に情報処理がされている。人間の活動にAIがどんどん染み出てきているのです。

このテキスト中心のAIが、今や人間の認知(画像・映像・音楽などの非テキスト情報)まで及んできています。Googleレンズはその一部で、写真に撮るとスマートフォンがそれ何か教えてくれます。書籍が基本的にテキスト中心なのでテキストに収まっているうちはまだ、これまでの書籍の置き換えにしか過ぎませんでした。データが非テキストになりこれをコンピューターが計算しアクセスできるようになった時点で、過去のシミュレーションではなく新しい人間の情報処理の形であると言えます。そしてこれまだ始まったばかりです。コンピューターの、非テキストデータに対する情報処理能力が日々進んでいるのです。

一方で、情報処理能力が競われる時代に突入した今であっても、人間が絶望することはないと思っています。無から価値を作り出す行動、たとえば絵画であったり音楽であったり、映画であったり。これは情報処理能力だけでは説明できないのです。あくまでも全体智から何かを取り出し利用できる状態にすることを処理と呼んでいますが、無にはその材料がないのです。したがって、イノベーションの能力は人間に求め続けられるでしょう。また、対極的な話ですが、人間と人間の利害を調整する能力も情報処理能力を超えたところに位置していると思います。情報処理能力を突き詰めているアメリカが、トランプ大統領を選んだことが興味深くてたまりません。そして情報処理自体は善でも悪でもなく、恣意的に捻じ曲げることが可能だとわかりました。昨今のフェイクニュースや、厚生労働省の統計の捻じ曲げ、フェイスブックの個人情報漏洩、中国の情報統制などを見れば、コンピューターが最善を計算してくれるというのは幻影だということがわかるのではないでしょうか。

コンピューターは客観的に計算するので正しい答えを導き出す、というのは人間の錯覚だということがわかります。コンピュータの情報処理能力を過信せず、最後は全体智の根拠まで自身で確認し、最後は自分の頭で考えなければいけないのは興味深いです。人間に求め続けられる能力は、最後は自分で結論を処理するという機能です。

 

まとめ

まとめますね。

・人間の智は外部にあるというのは、今に始まったことではないこと。

・全体智の保管方法が書籍からデジタルに変わり、かつアクセス権が民主化されたこと。

・人間の能力のものさしが、暗記・計算能力から情報処理能力に劇的に変わったこと。

・テキスト情報を探し出すだけならばすでにコンピューターが人間を代替している。非テキストの分野も時間の問題。

・本当に欲しいものを取り出すためには人間側に情報処理能力が必要。

・取り出された情報が恣意的になっている可能性があるため、最後は人間の判断が重要。

・無から価値を生み出すことは情報処理能力だけではできないから、人間に求められ続ける。

・一方で、人間間の利害調整も、情報処理能力ではできない。トランプ大統領の例など。

・様々な情報処理の結果、最後に判断を最適化するのはどこまでいっても人間だということ。

ということです。

IT業界にいるとどんどんコンピューターが人間を侵食すると思いがちですが、こんな時代でも私たちは歯を毎日磨きますしお風呂にも入るし、誰かを嫌いになって喧嘩したり、好きになって恋に落ちたりするのです。地に足を着けて毎日生きていけばそれなりに楽しいことが待っていると思いますがいかがでしょうか。