高齢の方が「またあの人、同じこと言ってるよ」と煙たがれるシーンが色々な作品で言われることがあるが、何となく、その状態になる仕組みがわかるようになってきたような気がする。
同じ人物が、「さあ主張して見なさい」と言われたときに、ほとんどの人が何らかの主張を発することができる。それが社会のことなのか、身の回りのことなのか、自分自身のことなのか。何にしろ不満や気になることは誰しもあって、そして誰かにそれを伝える機会などほとんどなく、悶々として日々生きている人の方が多いんじゃなかろうか。
友達がいたって全部吐き出せることなどできない。ツイッターが愚痴の塊みたいになっているのもうなづける。いいねがつくと嬉しいのも分かる。みな、主張したい何かが積もっている。
私は、ブログを続けているので、主張することについては発表する場がある。ストレスを貯めやすい方なのか、毎日2記事を投稿できるくらいなのだが、それでも、そういえば、主張にバラエティーが無くなって来た気もしなくもない。
感覚的には、日々自分自身は少しづづ変わっているので、それを表現できれば延々と書ける、なんて強気でいたものの、何だかさすがに、同じ人物が主張を繰り返していれば、「またその話か・・」状態になるような気もしてきた。
特に、1度誰かにウケた話は、またしたくなる。とっておきの話、みたくなって、時間が経ったら再投入・・と知らず知らずのうちになっている気がする。気が付いたら、同じ話を何度も・・なんて。
長い間生きていると、加齢に伴って自分の意見を求められることが多くなる。年齢が下の人は自分を見ている。こうすべきだ、ああすべきだ。言っている間は気分がいいものだ。
そうやって、人々の反応を見ているうちに、何となく自分の主張はこうで、質問されたらこう対応しようというパターンが自分の中に見えてくる。
その結果、高齢になると皆、主張しきったようになってしまい、ある一定の答えが固着かしてしまうのかも・・なんて。
自己完結していればしているほど、そうなるのかもしれない。
なんとなくそれは老化、と言うよりは、人間の性質だと思われる。
だから、何となくこれから気を付けたい、と思うこと。
一度「こうすべきだ!」なんて言ったとしても、それに縛られないようにすべきじゃないか、と。
「前言ったことと違うよね」というのは、誉め言葉なのかもしれない。昨日はああ言ったけれど、もしかしたら新しい結論があるのかもな。日々、捨てて行かないと、気づいたら成長は止まってしまっていて、決まった殻の中でぐるぐる回っている自分ができてしまう気がする。
それが、このブログの中で再現されてしまうぐらい、怖いことはないな。
AIが学習し過ぎると、モデルが壊れるという話がある。
「過学習」とは過適合とも言いますが、機械学習を行う際に学習データとAIがあまりに適合しすぎて正確な結果が出ないことを言います。
学習データ上では正解率が高いのに評価データにすると正解率が低くなってしまうと言う、学習データだけに最適化されてしまって汎用性がない状態に陥ることです。
過学習。今回言いたいことと同じ状態な気がする。
数学的にも証明できるんだね・・。きっと、マンネリに悩むとしたらこれだ。
今までと全然違った経験をしてみたり、過去の考えを一度置いて新しい考え方を学んでみたり、これからできることはまだまだありそうだ。
社会は目まぐるしく変わっているから、過去フィットした主張も、どんどん変えていかないとね。すぐ、古い感覚の人、になっちゃう。