まともな批判精神がある=出世できない?
面白いことをおっしゃるなあ・・と。
日本はある時期から、イエスマンシップ、すなわち「無意味なタスクに耐えられる」能力がキャリア形成上重要な能力となった。昔から「ゴマすり社員」は一定数いたが、それが出世のためのデフォルトになったのはここ四半世紀のことである。
いまの40代、50代を見ると、どの組織でも、まともな批判精神がある人間は出世できていない。
考察
この記事、今の若い人から見たら、「ああ、何も逆らわず、イエスと言うことが出世のために必要なんだなあ」と読めますよね。イエスを貫徹できた人が無難に出世するのだと。ただし、AI等の技術革新で今後仕事がどうなるのかわからない。長期的に言えばよろしくない、と。
果たして、まともな批判精神があると、出世できないのか。
この問いに答えてみたいと思います。
基本的にはその通りです。私に例えば部下ががいるとして、まともに批判精神をぶちこんで来る人とは仕事はしたくありません。
たまにいるのです。リベラルをはき違えているのか、「それは違いますよ、こうじゃありませんか。」って悪びれず反論してくる人。上司も部下も平等で同じ意見を言い合うべきだと思っている人。基本、私はそういう人とは仕事しないと決めています。上司がイエスと言えば基本的にイエスという人と仕事がしたい。
ただ、文中のイエスマンのようにあるべきかというとまた違った意見です。
「わかりました。では、こういうふうにしますがいかがでしょう。そうではないなら、別のプランがあります。でも、こうだとうまくいきませんね。こうしましょうか。」
こうやって、イエスと言いつつ具体論まで落とし込んで、イエス・ノーの選択肢だった問いを、記述式に改めるのです。イエス/ノーを二択で考え、イエスの通り動く人はまだ二流です。ノーと言う人は三流以下です。記述式にして意味を発展的に想像できる人が、出世しています。上司はイエスである原則を外さなければ心地よく対応してくれます。あとは自分の自由なシナリオを作り上げ、もともとイエス/ノーであった指示以上のアクションを取り、いつの間にかイニシアティブを取っていく。これこそが、出世の仕方だと思います。
若い人が誤解しがちなのが、このイエスマンの捉え方です。イエスというは原則で、実はけっこういろいろな自由さが隠されており、この自由さを発揮して自分らしい仕事をするのが、仕事の秘訣だと私は思います。
繰り返しますが、上司の指示に「まともな批判精神」なんてどんなに時代が進んでもあり得ないです。組織の成り立ち上、ビジョン・ミッションたる経営方針があり、中期計画があり、今年度目標があり、部門戦略があり、あなたに指示が降りているのです。ノーという答えをまず出すようでは組織にはいられないでしょう。また、例え自分が起業したとしたらわかるはずです。部下に、批判精神のあるヤツなど絶対にしたくないと。
一方で、「これはノーだ。もっとこうしたほうがいい」という時もあるでしょう。この場合まともにノーと伝えるのは愚の骨頂です。イエスに従いつつ、記述式の問題に昇華しながら、各論でノーの方向に持っていくような調整能力が必要です。一時、政権が民主党に変わった時に、美辞麗句のマニフェストが官僚にて完全に骨抜きになった記憶があるのですが、これはこの「記述式にした後にノーの方向に持っていく」テクニックを使ったんだと推察します。
決して、世の中、イエスマンが出世するのではなく、イエスと言った後に建設的な議論をしながらイニシアティブを部下サイドに引き込んで、手柄を立てていくタイプの人が出世している、と思います。
だって、仕事でご一緒する出世している人・・・、一癖も二癖もある人達ですもん。食えない人ばっかりですよ・・。心には批判精神を持ち、発言では表に示さず建設的に行動する。世の中の難しさはそこにあると思います。
まとめ
まとめますと・・。
・何でも上司の指示をイエス!と言ってその通りやる人→うまくいかなかったときに、次どうすればいいですか?と言ってくるから評価が得られにくい
・上司の指示に批判精神が発動してノー!と言う人→上司から嫌われ、仕事が減る
・上司の指示にはイエス!と気持ちよく言うが、そのあとの具体的な思索は自分の頭で考え各論を上司に提示、だんだんイエスだかノーだかを抽象的にしていき、最後は自分のストーリーにして成功に見せる人→上司の指示を正解にし、かつ部下としても手柄になりWin-Winで評価されやすい
ということです。
なお、わたし、この元記事である内田さんが指摘する大学教育の問題点には納得はしているんです。イエスマンを確かに乱造している。でも、実際に出世しているのは、純粋なイエスマンではなく、戦略家としてのイエスマンですよ、ということをお伝えしたかったのです。