orangeitems’s diary

40代ITエンジニアが毎日何か書くブログ

なぜなぜしない世の中は、不祥事だらけ

 

なぜなぜ分析、という有名な問題分析技法がある。

 

 

 

この形式をそのまま仕事でやる必要もないしやってもいいが、考え方はとても参考になる。人の分析なんて「なぜ?」の一段階くらいもしくは二段階くらいまでで止まるので、本当の原因までたどり着けない。だから、なぜ?を何度もやってみましょう、との考え方。

でもこれを始めて聞いたときに、実際自分の思考法そのものだったので、特に何かを習得することなく、あ、これでいいんだ、と自信を持てた。

一方で、形だけこれをやると現場は、なぜなぜ分析を終わらせるために、フェイクのなぜをでっちあげて報告書にするので、中身が伴う必要があるな、とも思った。たいていの「方法論」なんて、偽装と隣り合わせである。

「このなぜなぜ分析とやらをやれば、許してもらえるんでしょう?」みたいな動機でやってもきっとうまく行かない。モチベーションとして「絶対に再発させないぞ!」が無ければ、どんなにいい道具があったとしても、その道具はきちんと使われないのだ。

問題が起こったのはなぜなんだろう。知りたい!、と思う気持ちが強ければ強いほど、自然となぜなぜするものである。そもそも失敗したのは徹底していないから。徹底するようにします!、で終わっているニュースを最近よく見かけるけど、なぜ徹底しなかったのだろうか。徹底して原因究明をしなかったことが原因、みたいなバカし文句もある。じゃあその徹底した原因究明の結果どうなったの?、と。そしたら、「徹底するようにします」が結果だったりして、徹底って言葉が出た時点で思考停止だと私は思っている。

だって、失敗したい人なんて誰もいないからね。徹底すれば失敗しないかって、徹底しても失敗するから問題が起こるわけで。人が普通に生きてて、普通に失敗するので、失敗しても誰かが気付いて修正したり止めたりするような仕組みにしないと、問題は再度起きますよね、ということになる。

街を歩いていても「〇〇強化月間」みたいなポスターがいつも貼られていたりして、いつもよりがんばる、みたいな程度の問題を、原因分析に持ち込むと大いに失敗する。

その状況がどうして起きたのか、どんな場面だったのか、どんな人たちがいてそのとき何をやっていたのか。なぜ本人は見抜けなかったのか。周りはなぜ見過ごしたのか。どうやって失敗までたどり着いたのかを細かく見ていくと、たいてい「普段はこんな状態にはならないよな」「特殊な状態だったな」と言うのがわかってくる。

だから、もう起きない、ではなくてそんな状態が起きても、失敗までたどり着かないように仕組みを作っておくまで行って、初めて徹底という状態にはなるんだけど、「集中して意識において忘れず、気を付ける」みたいな精神論になる傾向があり、それって日本社会のぐずぐずしたところだな、と思う。

そのくせ「責任は私にあります」なんて軽々に言ったうえで「責任を果たしてまいります」と言って責任のすり替えをする方法論が蔓延もしてるし、結局のところこの世の中って、ぐずぐずした場所だなという感想しかない。

つまるところ、世の中のそういうだらしないところって、蓄積して蓄積して結局は爆発して大騒ぎになるのだから、見つけ次第叩いて正しくするのが一番楽なんだと思うんだけどどうなんだろうか。もう隠ぺいしていて許される時代じゃなくなっている、けども。

普通に、問題は、ちゃんと原因追及すればいい、って話よね。